なぜ映画はおもしろくないのか
映画は「重い」
たとえば映画において、興行収入ラングは大きな意味を持ちます。多くの人は映画を見るときに、興行収入、あるいはDVDランキングを重視しています。たとえば書籍の場合はどうでしょうか。人々が本を買うときに、売上げランキングをそれほど重視するでしょうか。
たかだがトップ10をもとに選ぶのでなく、近くの本屋に行って、純文学、SF、ミステリー、ノンフィクションなどなど自分の興味のある分野をみて回って探すのではないでしょうか。
この差はメディアとしての「重さ」の違いにあります。映画は、製作に大金がかかり、配給に大金がかかります。テレビがただで見られる中で、お金を払って、映画館に人を集めるのは、大変なことです。
ビデオを含めて様々な映画が溢れていると考える人がいるかもしれません。しかし映画は広告に大きく依存し、マスメディアが広告する数本の映画以外の情報を入手するのはハードルが高い。だからボクたちに届く映画はとても限られています。
マクドナルド化という「低コスト化」
このような傾向は「マクドナルド化(マクドナルディゼーション)」と言われるものと関係しているでしょう。
「マクドナルド化」は、フォーディズムの延長上にあります。フォーディズムによる大量生産は、製品、生産工程、労働力を規格化しました。規格化による合理化、低コスト化による豊かさを実現しました。さらには規格化された消費者に繋がります。商品やサービスの規格化、すなわちソフトの規格化によって「マクドナルド化」が進みます。
たとえばマクドナルド化のひとつの傾向として、ディズニーランドなどの規格化されたサービス商品(娯楽)の提供が上げられます。マクドナルド、ファミレス、最近ではショッピングモールなど単に食事、買い物するのでなく、買い物そのものが「テーマパーク化」しています。
すなわち規格化の一番のメリットは、様々な商品、サービスを、低コストで提供することにあります。高級で庶民に手が入らない商品も、規格化し、大量生産することで、低コストで提供し、庶民も楽しむことができるようになります。フォーディズムからマクドナルド化へは提供する商品をハードからソフトへの広げたと言えます。
「マクドナルド化」という「とりあえず」
このような規格化の潮流は、グローバル化を支えています。規格化された情報は、容易に伝達することができ、マクドナルドのように同じよう規格化されたサービス、商品が世界各地に広がって行きます。
ボクたちがマクドナルドへいくのはいつも安定したもの、サービスを得られるからです。たとえばなれない外国にいってマクドナルドへ行くとホッとする言われます。これは、「街のホッとステーション」というコンビニや、ファミレスも同じです。ここに「低コスト化」ともう一つのマクドナルド化が進む有効性があります。
情報化社会においては、ボクたちは様々な情報に溢れています。様々な選択を与えられ、自由度が広がります。しかしこれは逆には、様々な選択を強いられる「選択のインフレーション」が起こります。ひとつひとつ、選択していくことは苦痛です。だから自分に変わってナビゲートしてもらえるサービスはとても有用です。「マクドナルド化」はボクたちがなにをすべきかを提供してくれるのです。
「とりあえず」マクドナルドへ言っておけば、「とりあえず」ファミレスへいっておけば、「とりあえず」ディスニーランドへいっておけば、「とりあえず」トップ10の映画に言っておけば、ある程度の商品が提供されるだろう、ということです。
マクドナルド化が動物化、他者回避と言われるのはこのためです。情報にナビゲートされることで、他者とコミュニケーションは必要とされません。どこ店にいく、どこに遊びにいくことに悩み、他者に相談する必要はありません。マクドナルドに行って、規格化されたサービスを提供する店員と、決まったコミュニケーションを行うだけです。
「マクドナルド化」と「オタク化」の二極化
ここで重要なことは、人は情報化社会の中で、ただマスメディアにナビゲートされる「とりあえず」な受動的存在だけではないということです。そこに満足することはできないだけでなく、「とりあえず」を支えるのは「ゆずれない」ことの存在です。
だから情報化社会の「選択のインフレーション」でまず重要な選択は、何が「重要なこと」で、何が「重要でないこと」かの選択です。
情報化社会において、ほとんど多くのことは「重要でないこと」に分類され、社会の「マクドナルド化」によって、ナビゲートされるままに任せて、「とりあえず」満足することを求めます。そして多くの選択を「重要でないこと」とするのは、一部の「ゆずれない」「重要なこと」に労力を割くためです。たとえば父親なら仕事であったり、母親なら家族であったり、子供ならばオタク的趣味であったり、自らのアイデンティティを支えるものです。
このような傾向は、映画で言えば、有名なスター、ジェットコースターのような刺激的な映像で、トップ10に入るハリウッド的映画を、外れなくサクッと楽しむ「マクドナルド化」した映画の楽しみ方と、むしろトップ10に依存せず、積極的に様々な情報を収集し、映画を楽しむ映画マニア(オタク)の二極化です。
そして映画は「重い」メディアである故に、マクドナルド化しやすいのです。俗に言う「ハリウッド映画」は規格化、グローバル化されたまさにマクドナルド化そのものです。
「夢さえあれば貧しさも苦でない」
最近の格差社会もマクドナルド化の流れで見ることができます。問題になっているのは、フリーターなどの非正社員による低賃金労働者という下層の増加です。そして彼らの多くが働いているのが、ファミレス、コンビニなど、マクドナルド化が進んだ産業です。労働が規格化され、労働者の代替が容易です。
そして彼ら「下層」がそのような状況に怒らないのは、自らそれが「重要でないこと」として選択しているからです。「重要でないこと」は「とりあえず」ナビゲートに従う。そして「ゆずれない」「重要なこと」を行うのです。「夢さえあれば貧しさも苦でない」ということです。ただこれは、彼らが明確な「夢」をもって、目指しているということではありません。たとえば正社員になって生活が安定することは、「「重要なこと」を選択すること」を捨てることです。
マクドナルド化された社会では、ほとんど多くのことは、誰もが「とりあえず」同じように楽しむことができるのですから、現代人にとって重要なことは、「重要なこと」がなにかでなく、「重要なこと」を選択しているという状況にいることなのです。
マクドナルド化というグローバルな潮流に対して、このようなアイデンティティを確保しようとする人々の試みは、滑稽なものであることも否めません。しかしまたこのような滑稽なことがマクドナルド化という潮流を支えるという相補的な二重螺旋構造にあると言えます。
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