人類はなぜのんびり生きることができないのだろうか

pikarrr2006-10-30

経済調整の難しさ


人が生存するために最小限必要なこと、衣食住のために行われる労働は、近年の効率化によってわずかな労力しか必要としなくなったし、わずかな労働であとはのんびり過ごすことはできないのだろうか。

たしかにいまの科学技術なら、最小限必要なこと衣食住+医療+教育の確保は、それほど難しくないかもしれない。だから原理的には、経済の低成長によるのんびり世界は可能かもしれない。

ただ実際それを行うには、いかに経済活動を調整するかが問題になるだろう。政治的な調整が必要になるが、過去の共産主義保護主義で実証さらているように「生命群のようにうごめく」経済をコントロールするのは困難である。多くにおいて、また政治家の権力が強くなりすぎて、たとえば北朝鮮のように人民は疲弊し、独裁に向かってしまう。




回り始めた歯車は誰にも止められない


「生命群のようにうごめく」とは、創発性ということだが、この動力の一つが欲望である。ヘーゲルがいったように、衣食住の充足は動物的な欲求であって、人間は衣食住だけでは満足できない。人の欲望には終わりがない。現代では付加価値、さらには娯楽など無形財に多くのお金をかけている。

自由市場経済というのは、世界の金持ち500人の資産計が、残りの人類の資産計よりも多いという超格差世界だが、一部の金持ちの陰謀というよりも、人々の欲望が混沌とし、経済という「うごめき」が生まれている。このように回り始めた歯車は、もはや誰にも止められない。

活発なコミュニケーションが行われる環境があり、貨幣価値化された数字が高速で飛び交い、創発的に活動、成長する。「これがほしい」という欲望さえ、受動的な疎外された存在であり、あるのは、ドゥルーズ「欲望する機械群」という欲動としての力動とシステムのみである。




経済システムの拡大と社会秩序の弱体


なぜ少子化がおこるのかといえば出生をコントロールするからだ。経済的質を保つために。「明るい家族計画」は、豊かさを享受しつづけるためには重要なファクターである。さらには「明るい人生設計」には結婚さえ重要度が下がる。たとえば老後において、子供、妻さえ保障にならない。お金の方が安心とさえいえるだろう。たとえば格差調査において低所得ほど結婚していないというデータがあるが、お金がないからもてない、結婚してもらえないといえるが、結婚しないならお金はいらないともいえる。

趣味にいきる、やりたいように生きる。結婚、家庭など社会制度に縛られたくない。価値の多様化である。このような自由度を支えているのが、経済システムである。社会的な秩序に依存しなくとも経済システムに従えばある程度のことは保障される。そして経済システムの拘束はゆるく労働と消費という身体を提供するだけで、誰であるか、なにを考えているか、何がほしいかなど趣向には干渉しない。

そもそも明確にやりたいことがある必要などない。ただ「欲望する機械群」としての動力が想起されていることだけが重要なのであり、経済システムの歯車の中で、欲望の対象はいくらでも作り出され続ける。




人類の成熟期


しかし回り続ける歯車にも様々な限界が見え始めているのかもしれない。環境問題、人口問題、高齢者問題。あるいは最近のテロの問題も、世界的な格差を元にするという意味で関連するかもしれない。世界人口予測は様々にされているか、2050年当たりで、高齢化、出産率の低下などにより、減少に転じるという予測がある。

産業革命以後の、経済成長、人口増加の爆発的増加は「人類の青年期」的な一つの現象であり、長期的に人類は成熟期をむかえ、動力としての欲動は弱まる。そして自然にゆるやかな経済成長の世界に向かう、のかもしれない。そのときには、さらに格差社会が継続される、管理社会になるのか、マルクス的なアソシエーション社会になるのか。
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