なぜWeb2.0にとって信頼が重要なのか

pikarrr2006-11-01

数式→言語→シミュレーション


近代化におけるテクノロジーの方法論では、古典物理学で特徴的なように、現象を単純な法則に還元し、近似的な数式化することに基礎がある。

しかし数式への還元が困難な曖昧なものは、言語によって表現することになる。言語においても、論理実証主義などのように、還元主義化は進んだが、本質的に言葉における表現は、曖昧故に有用な記述方法であるともいえる。

次にコンピューターの発展による繰り返し計算の高速化、低コスト化によって、より複雑な現象を、計算によってシミュレートできるようになった。たとえば気象や進化などの言語でしか記述できなかった複雑な現象も、ある簡易的なモデルにおいては、計算することが可能になっている。

ハードの発達と並行して、数式→言語→シミュレーションへの流れがあり、社会に様々な影響を与えている。




功利主義構造主義(記号消費)→功利主義統計学マーケティング


たとえば消費について考えると、貧しければ、衣食住というようにほしいものは明確である。そこでは人間は経済学的に、功利主義的に振るまうと考えられる。しかし物質的に豊かな消費社会になると、このような法則にあわなくなる。価値は多様化し、欲望は複雑になる。

このような状況を示したのが、ボードリヤールのいう記号消費である。言語のように差異として商品を消費する。多くの商品との違いにこそ意味(価値)が生まれ、欲望される。その中でオリジナル(使用価値)不在の、コピー品だけのハイパーリアルな世界が現れるということだ。このような特性を可能にしているのが、言語のもつ曖昧さ、シニフィアンの恣意性である。

しかし現代ではこのようなイメージとしての商品を求めることから、マクドナルド化している。マクドナルドでは記号を消費することよりも、マーケティング(シミュレーション)による効率化によって、消費者が求めるものを安く、迅速に提供する。コンビニなどそこにいけば、「とりあえず」そこそこのものが手に入るという便利さがある。

「ゆずれない」を求めた記号消費の典型であるブランド品は相変わらずよく売れ、「とりあえず」買うマクドナルド化も進んでいる。これらは二極化しているといえるだろう。

情報化社会においては、ボクたちは様々な情報に溢れています。様々な選択を与えられ、自由度が広がります。しかしこれは逆には、様々な選択を強いられる「選択のインフレーション」が起こります。ひとつひとつ、選択していくことは苦痛です。だから自分に変わってナビゲートしてもらえるサービスはとても有用です。マクドナルド化はボクたちがなにをすべきかを提供してくれるのです。

「とりあえず」マクドナルドへ言っておけば、「とりあえず」ファミレスへいっておけば、「とりあえず」ディスニーランドへいっておけば、「とりあえず」トップ10の映画に言っておけば、ある程度の商品が提供されるだろう、ということです。

ここで重要なことは、人は情報化社会の中で、ただマスメディアにナビゲートされる「とりあえず」な受動的存在だけではないということです。そこに満足することはできないだけでなく、「とりあえず」を支えるのは「ゆずれない」ことの存在です。


「なぜ映画はおもしろくないのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061028




シミュレーションの限界


最近は、このようなマクドナルド化につづいてグーグル化と言われる。マクドナルドによる「とりあえず」なナビゲーションから、アマゾンでは「あわせて買いたい」「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というようなナビゲーションが行われる。より大量の情報を処理することで、的確なナビゲーションを行おうというものである。

しかしグーグル化によるナビゲーションは、大量の情報、シミュレーション技術の向上を目指すものではない。シミュレーションは処理能力が向上しても、予想外の動きを予測することはできない。どんなに的確なナビゲーションが行われても、人は自分でも予測しなかったようなものを提案してもらうこと、シミュレーションによって決してナビゲートされないようなナビゲートを求めているといえる。

このような「ナビゲートされないようなナビゲート」をする方法として、注目されているのが、Web2.0だろう。



数式→言語→シミュレーション→コミュニケーション(Web2.0


知りたい情報を入手するとき、マスメディアによってプロの言葉を聞くのもいいだろう。あるいはマーケティングによりシミュレーションされた結果を提供されることも可能だろう。しかしネットで起こっているのは、まさにコミュニケーションによって、知りたい情報が自律的に立ち上がる「現場」である。

たとえば2ちゃんねるブログ界隈で知りたい人々が集まり、情報が飛びかう。小さな管理によって整備された場を提供することで、このようなダイナミズムを生み出すのが、Web2.0の一つのあり方である。2ちゃんねるWeb2.0か。2ちゃんねるはまったくの無法地帯ではないが、管理度は低い。サービスとしては質が悪いか、その自由度とダイナミズムが魅力である。ミクシィは管理度が高く、サービスの質がよい。

最近、車メーカーなどのSNSができたりしているが、単なるマーケティング調査でなく、場においてコミュニケーションを活性化する中、次のブームを作っていくということだ。たとえば2ちゃんねるのニュースサイトの反響は世論の一部としてマスメディアなどを経由し、社会に影響を与えている。

ユーザーを単にナビゲートされるのでなく、ダイナミズムの一部として巻き込んでいる。そこでは「ナビゲートされないようなナビゲート」、予測されないようなナビゲートが起こる可能性がある。




GoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」


話題のGoogleによるYouTube買収は、動画コミュニケーションという新たに育ちつつある場を買ったのである。そしてGoogleは質の悪い場を、整備し管理し治すことになるのだろう。その質の悪さの一番は著作権の確信犯的な放置である。

しかしYouTube買収問題の本質は単に著作権問題をどう処理するかでなく、確信犯的に放置した著作権問題によって、生まれていたダイナミズムは維持され続けるのか、ということだろう。さっそく、人々が離れていくということが起こっている。

YouTubeの成長停滞は一時のもの」

ネットレイティングスは11月1日、YouTubeの米国での利用者数が9月に入り大幅に減少したことを発表した。ネットレイティングスによると、YouTubeは2005年10月以降、順調に月間の利用者数を増やしてきたが、Googleによる買収が発表された9月に、初のマイナス成長となった。

http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20296988,00.htm

たとえば2ちゃんねるGoogleが買収すると、大きな反発を買うだろう。そして2ちゃねらーは離れていくのではないだろうか。ここには、のま猫問題」の時と同じ問題がある。なにかが失われるのである。

またケツ毛バーガー事件」がこれほど反響を呼んだのは、mixiが上場し、高額な値がついたタイミングと関係するのではないだろうか。mixiが売り払われ、なにかが失われたことへの反発として、あの事件は盛り上がったのだ。




Web2.0は場への信頼によって支えられる


記号消費という終わりなき運動、決してシミュレーションでナビゲートされず、終わりなきコミュニケーションの中からすくい取ろうとするWeb2.0という試み。

これらにあるのは、シミュレーションによってナビゲートされる「とりあえず」充足する「身体」に対して、「ゆずれない」差異化し続ける「心」である。それは「私とはだれでもない私」であるという欲望である。すなわちGoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」とは、「私とはだれでもない私」Googleによって管理されることへの反発である。

しかし2ちゃんねるでも、mixiでも管理は存在する。問題は管理そのものでなく、その場への帰属意識であり、信頼である。「私とはだれでもない私」とは他者との関係、コミュニケーションによる差異化によってしか、実感できない。そして差異化運動は、強い帰属意識、場への信頼の中で生まれる。決して、貨幣価値に還元されない信頼である。そして信頼とは受動的に与えられるものではなく、主導的に場をともに作っている実感によって作られる。

だから情報化社会の「選択のインフレーション」でまず重要な選択は、何が「重要なこと」で、何が「重要でないこと」かの選択です。

情報化社会において、ほとんど多くのことは「重要でないこと」に分類され、社会のマクドナルド化によって、ナビゲートされるままに任せて、「とりあえず」満足することを求めます。そして多くの選択を「重要でないこと」とするのは、一部の「ゆずれない」「重要なこと」に労力を割くためです。たとえば父親なら仕事であったり、母親なら家族であったり、子供ならばオタク的趣味であったり、自らのアイデンティティを支えるものです。


「なぜ映画はおもしろくないのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061028




心身二元論の二重螺旋運動


数式法則(数字)→言語→シミュレーション(数字)→コミュニケーション(言語)の流れは、数字と言葉の相補的な追い掛け合いのようにでもある。将来、人口知能などの技術革新によりダイナミズムが計算予測されれば、コミュニケーションのような曖昧なものに頼る必要はなくなるかもしれない。

しかしこの追いかけ合いが終わるときとは、人間が数字に完全に還元されたときであり、人のゲノムが解読されようが、人間そのものは還元されないだろう。これは心身二元論的な終わりなき二重螺旋運動なのである。