なぜGoogleはただ乗りなのか
ネット時代の新潮流――CGMとは
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/18/news024.html今、Web2.0のキーワードが注目を浴びています。その中に内包される概念としてCGM(ConsumerGeneratedMediaの略)が存在します。簡単に訳すと消費者が生成したメディアとでも言うべきものなのですが、一般的には消費者が作成、または見つけ出した情報を投稿(Web上にアップ)し、発信されていくコンテンツの総称がCGMと呼ばれていることが多いと思います。
Web2.0の話とCGMの話を混同して語られている例が、よく見受けられます。しかし、Web2.0が提唱するブログやSNSなど「プラットフォームとしてのWeb」(以後CGMのプラットフォームと呼びます)と、その中で増殖するCGMへのアプローチは、まったく異なる次元の話です。
ネットには、一極集中なポピュリズム的な面があり、人が集まるところに人が集まります。たとえば「Web2.0」、あるいは「CGM(ConsumerGeneratedMedia)」はマーケティング用語ですが、その根底にはネットがもつこのような創発的な動力をもとにしています。
またそれとは別の傾向があります。ネットはニッチな興味を持つ人々が出会うことができます。そしてこのようなニッチが広がるオタク的な面がネットの裾野の広さを支えています。そしてネットそのものがもつこのような動力をマーケティングへと応用したものが、「ロングテール」です。
たとえば個人的なことをいえば、2ちゃんねるの楽しみ方は、ニュース+板、実況板など流動性の高い板で毎夜行われている祭りを楽しみます。それとともに、哲学板のような過疎板のさらにラカンスレなどのような過疎スレというニッチにボチボチ書き込み楽しみます。
ここにはともに差異化運動が関係しているように思います。群衆の中で、少しでも差異を見いだそうとして、群れる祭り的な面と、よりマニアックであろうという差異を見いだすオタク的な面です。どちらもネットの楽しみかたであり、だれもがこの二面性を楽しんでいるのでは、ないでしょうか。
たとえば「Web2.0は成功するのか」、「ロングテールはほんとうに儲かるのか」、という話がありますが、それは本質的な問題ではありません。ネットでは、「Web2.0的なもの」と「ロングレール的もの」が二極化して起こっており、いかに儲けるのか、儲かるかは、そこからいかに利益を上げるか、知恵を絞れ、ということです。
消費への依存度の低下
かつてのマーケティングと結びついた差異化運動といえば、ボードリヤールがいうような「記号消費」です。ブランド品のような他者と少し違うものを消費することによって、自己のアイデンティティを見いだす。ここでは、広告などマーケティングによるマスメディアに主導権があり、たとえば最近の販売店の「テーマパーク化」のように、人々の消費への欲望をかき立て、ブームとしての動力を起こすように、能動的に知恵が絞られました。
しかしネットのコミュニケーションの活発化において、「Web2.0」、「ロングテール」では、すでに動力があります。逆に売り込みの積極性が見えたとき、ネットの創発性の波は引いてしまいます。
さらには、もはや消費は、楽しみの選択の一つでしかありません。受動的に与えられる商品より、ケータイの爆発的普及のように、他者とのコミュニケーションを楽しむ時代です。たとえば2ちゃんねるなどネットそのものが、テーマパークです。消費へ依存していた欲望は、その依存度が減少しているということです。これは、消費資本主義そのものの変革を意味するかもしれません。
「Googleはただ乗りだ」
ネットの動力をいかに活用するか、という受動的なマーケティングシステム、気がつくと購入している、あるいは知らないうちに購入している、ことが重要です。最近なにか、仕掛ける側としての能動的な面が語られることが多いGoogleですが、「Googleはただ乗りだ」といわれるようなネット上の能動的な変化に乗っかる受動性の徹底に本質があるのではないでしょうか。
その意味では、群衆によって突然創発的に発生した「YouTube」という動力に「ただ乗り」しようという試みはGoogle的だったとも言えます。しかし「ただ乗り」にしては、はでに大金を払い、能動的にふるまいすぎたことで群衆にそっぽを向かれる心配が残ります。それは「ただ乗り」Googleの本質を見失うことになりかねません。
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