なぜお金にはリアリティがあるのだろうか

pikarrr2006-11-08

"How much?"ほど的確なコミュニケーションはあるだろうか


たとえばあるカバンがあり、そこには製造面、デザイナーの思い入れ、カバンマニアによる解説などなど様々な価値観があっても、「このカバンの価格は1万円」とお金により価値化されることで、様々な価値観への理解とは関係なく、誰もが「1万円」という価値を理解する。誰にでも、どこでもというこのわかりやすさこそが、お金の力である。

ある対象の価値は、質的なものであり、人それぞれ、コンテクスト(状況)によって曖昧である。それに比べて、"How much?"ほどセカイの中で早くて、的確なコミュニケーションはあるだろうか。




「お金として価値化されないものは存在しない。」


言語論では、言語化されないものは存在しない」といわれる。言語化されなければ、他者にコミュニケーションすることができず、社会に流通されない。意味があるものは何らかの名付けが行われているということだ。とすれば、同様に「お金として価値化されないものは存在しない。」と言えないだろうか。

しかしセカイにはお金に換えられないものはいくらでもある。思い出の品は値段がつけられない。しかしこれはその思い出の品に思い入れがある人の価値であり、一般的には中古品市場で思い入れは排除され、お金として価値化される。

あるいは人の命は決してお金に換えられない。これはその人に思い入れがある人だけではない。倫理として人の命はお金に換えることはできない。難病の高額な医療費で命が助かる、助からないなどの話があるとしてもである。

人間の心に関係する質はお金のような量に還元することはできない。なぜなら量に還元できるということは、代替可能であることを意味するからだ。たとえば人の身体は遺伝子として解読されるだろう。しかしこれを心は別である。双子の例のように同じ遺伝子にしたからといって同じ人ではない。人はそれぞれ唯一の存在であり、決して代替不可能なのだ。それが人間の尊厳である。

このように言語による意味付けに比べて、お金による価値化には限界がある。だからといってお金の力が弱まるわけではない。人の心に関する対象のお金による価値化への反動は、お金の力が強力すぎるためであるともいえる。




金額の「意味」


お金によって価値化された金額そのものにもまた「意味」が発生する。たとえば1万円の「意味」は大人にはたいしたことはないが、子供には大問題だ。

たとえばあなたがなんかの損害を与えた被害額が1万円なのか、1千万円なのか、百億円なのか。それは感覚的に他者との関係も意味する。命は価格化できないが、1人への損害に百億円はないだろうから、(アメリカの裁判では異なるが)百億円の損害は感覚的にある程度の人数の他者へ損害をあたえるだろう。

また会社運営なら百億円の投資は多くの従業員の生活への責任をともなうだろう。このようにお金は、責任という意味を負荷し、そこにお金のリアリティが生まれるのである。




お金の虚構性によって支えられるお金のリアリティ


最近の株式市場などのマネーゲームでは、お金は単なる数字のような錯覚をともない、このよなお金に対する責任、そしてリアリティは失われると、言われる。

しかしたとえば岩井の貨幣論(ASIN:4480084118)や柄谷によって指摘されているように、お金がお金であるのはお金という位置にあるからだ。すなわちマネーゲームのようなリアリティの喪失はお金が本来がもつ虚構性である。逆に、この虚構性というお金の本質が、リアリティを持ち得ることが、お金の不思議と言うことなのだ。

しかしこのようなお金の持つ虚構性こそが、様々な質的な意味から切り離され、的確に迅速にコミュニケションされるというお金の力を支えているのだろう。

このお金の力によって、お金という価値が共有の価値、社会性として、より広く、そしてグローバルにに広がる。そしてこのように広く共有されているということがお金のリアリティを重み付けする。そしてお金を持つ者はセカイの一員として責任を持った者として意味づけされる。

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