なぜ合理化はジレンマを生むのか 合理化される身体と場への帰属を求める心

pikarrr2006-11-15

合理化による「客体化」


たとえば電車にのって移動するとき、身体は狭い空間に詰め込まれて、高速で長距離はこばれる。ここでは身体は客体化されている。車による移動の場合、車を運転するという主体的であるが、目的地が決まれば、運転者であるか、ないかに大きな意味はない。地図上の決められ経路をとおって、身体は狭い空間の詰め込まれて、運ばれる。

たとえば食事をすることも、街に食堂があり、メニューがありメニューに添った材料が用意されてでてくる。そこに選択があり主体的ではあるが、結局、だれでもある程度同じような工程を経て食事にいたる。

ここで言う客体化の例は、近代の特徴である「合理化」によるものだ。合理化とは、生産者がより安く生産し、大量に売ることで儲ける。そして消費者は安く購入することで生活を豊かにするという、資本主義システムである。豊かな時代において、付加価値を求め、単なる安物だけを求めるわけではないとしても、合理的に消費者が求める付加価値品を開発し、生産すると言うことであり、合理化とは利潤追求のための効率化である。

社会システムは合理化され、効率が向上し、コストが下がり、物質的に豊かな社会が達成される。さらに合理化は土着的な場から離脱によって、「自由」という快楽をえることができる。そして「合理化」から離れると急激にコストが上がり、不確実性が増すために、人々はこのような合理化された過程を気がつかないうちに選択し、「客体化」されているである。




心身二元論的な「心」の自立とストレスの発生


かつて土着的な人々は「場」に固定されて生きることで、「場」と一体化していた。それが合理化された社会では、身体は客体化している。それは単に歯車に組み込まれるということでなく、次々と様々な「場」に貼り付けられる。このときに切り離される部分と残る部分が明確化する。さらに物質的な豊かさは、かつての土着のように「場」に、そして「場」の他者に依存することなく、生存することが可能になる。

そして「場」から切り離される部分としての「身体」、そしてその身体を客観視する心身二元論的な「心」を生む。それが近代的な「自立した主体」である。しかしこのような自立は、その始めから、身体が様々な「場」に貼り付けらことで、たえず「場」とのストレスが生まれる。

たとえば電話では、移動するのは身体でなく、「場」が移動してくる。ここで「場」とは他者であることがわかる。「場」とのストレスとは「見知らぬ他者」とのコミュニケーションである。




「合理化の徹底」によるストレス低減


たとえば最近のマクドナルド化は、このような他者を回避するストレス低減の方法である。身体が様々な「場」へ貼りつけられても、マクドナルド、コンビニ、あるいはファミレスへいくことで、すでに馴染んだサービスを受けられ、海外でいきなり店に入ってもストレスを感じなくてすむ。

ここでおもしろいのは、合理化によって生まれたストレスが、「合理化の徹底」によって補完されるという「合理化の循環」が起こっていることである。

合理化の徹底は世界中どこへいっても、同じ「場」を提供することへ向かっているのかもしれない。たとえば身体がトルコに運ばれようと、日本と同じようなマクドナルド化された様々なサービスが提供されれば、ストレスを感じることは低減されるだろう。国際的なホテルのチェーン店はそのように作られている。そして「トルコらしさ」は観光商品としてパッケージされ、マクドナルド化され提供される。

このようなことをグローバリズムと呼ぶのだろう。あるいは流行りの言葉でいえば、「フラット化する世界」である。そしてグローバリズムによって、失われるものが明確になる。どことも異なり、外来者を排他するような土着的な「場」そのものである。




「社会の底が抜けている」


では人はこのような「合理化の徹底」において充足するのか。このような状況は、宮台の言う「社会の底が抜けている」や、スティグレール「象徴の貧困」に繋がるだろう。

「社会(象徴界)」は本来「底が抜けている。」他者とのコミュニケーションの同一性は自明ではない。ラカンによる、乳幼児期の幼児的全能感=母子の想像的関係から、「父親の審級」による去勢によって、象徴界を獲得する。すなわち自分の思い通りに行かない他者とコミュニケーションしなければ、何事の達成できない、ことをしる。しかし現代は、「父親の審級」による去勢が行われず、幼児的全能感から抜け出せず、高い「プライド」、低い「自己信頼」によって、「脱社会的な存在」となる。


宮台真司 「サイファ 覚醒せよ!」 (ASIN:4480422595

文化コンテンツによる大衆のリビドーの捕捉は、究極的にはリビドー自体の破壊にまで及ぶ。様々な事件や凶行として現れる「アクティング・アウト(決行)」を招いている。

暴力的・犯罪的行為や凶行のもとには、自分は生きているのだという、存在感覚の喪失がある。消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在しているのだということを逆に証明せねばならなくなる。自己存在の証明のために、凶行に及ぶような行動をとるようになる。

フランスの暴動で現行犯逮捕された少年たちは、テレビで取り上げられ、社会で何がしかの扱いを受けるためだと、政治体制を覆すためでなく「存在する」ためにこそやったという。


「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911

「象徴的貧困」とは「象徴」の合理化であり、このような「合理化の徹底」によって、帰属する「場」(社会)から離脱し、「脱社会的な存在」になる、あるいは失われた帰属する「場」を求めて、極端な「アクティング・アウト(決行)」が起こる。これはひきこもり、ニート、フリーターの問題でなく、現代人の多くが共通にもつストレスである。




合理的に「場」を提供するWeb2.0


このようなストレスを回避する場として、最近のネット、ケータイが急激に広まった。このようなネットコミュニケーションの有用性は、「場」への帰属、離脱を容易にコントロールすることが可能になることである。

場を求めて帰属し、そこにストレスを感じれば離脱する。2ちゃんねるなどの匿名性に対して、mixi顕名性に近いことが売りである。ボクなどは、2ちゃんねるに比べて、mixiへのレスは他者への配慮としてのストレスを感じる。そして多くの人がこのストレスに繋がっている実感を持つのだろう。

しかしネットそのものは生産者が作りあげ提供した場でなく、創発的に広がり、場が形成される面が高い。そのために、コントロールが難しく、合理化が困難な無法地帯と思われていた。その中でネットの合理化に成功したのが、アマゾン、GoogleなどのWeb2.0である。

Web2.0とは、いかに合理的に「情報」を提供するかではなく、合理的に「場」を提供し、運営するかである。「情報」は提供すると終了するが、「出会い」はそこから情報交換が行われ、ユーザー間で「情報」が発展されていく。人々が知りたい情報を提供するかということだけでなく、帰属する「場」を求めることで生まれるネットの創発性をいかにうまく合理的に活用するかである。




「合理化」のジレンマ


ここでも合理化によって生まれたストレスが、「合理化の徹底」によって補完されるという「合理化の循環」が継続されている。資本主義が継続されるかぎりこれは当たり前のことかもしれない。資本主義において不十分とは次の合理化のためのニーズである。

合理化によって、土着的な「場」から切り離されることで自立してた心身二元論的な「心」は、土着的な「場」への強い帰属によってしか満たされない。だからネットでは「場」への帰属、離脱を容易にコントロールすることが可能になるということは、いつまでも継続した強い帰属する「場」を提供しないことを意味する。「合理化の循環」はこのようなジレンマを動力にして作動しつづけるのだろう。


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