なぜ進化論はポスト構造主義的なのか

pikarrr2006-12-25

考える名無しさん
ポストモダニズムに歴史的視点があるかどうかか。無いね。だから、進化論・ヘーゲル弁証法を否定し、通時性から共時性の肯定になった。つまり、色んな分野でも言われているように、歴史の終焉だ。ここが、ポスト構造主義の共通点だ。

歴史を肯定すると、自己=考える位置が絶対化する。ハイデガーはまだ歴史を強調してるよね。でもレヴィ・ストロースを見れば分かるように、構造は恣意的差異体系であり、ここには、成長や進化ではなく、差異の戯れしかないのだよ。

それと、進化論とヘーゲル弁証法は同じ考えだ。どちらも絶対点に到達すると考えている。ヘーゲルではなく、一般的に言う歴史とはについては、前進・進化・絶対知に向かうという考えは無いかもしれないが、自分の立つ位置を求める意味では、ポスト構造主義ではないよ。

第三の波平
構造主義の差異と、ポスト構造主義の差異は別物です。ポスト構造主義創発の思想だから、弁証法でなく、歴史の終焉でもなく、本来の意味での進化論でしょ。

進化論とヘーゲル弁証法は同じというのは、基本的な誤読ですね。進化論はどこに到達しませんよ。環境に適用し変化し続けるだけです。

考える名無しさん
構造主義が恣意的差異体系の事で、決して絶対的な構造・構築物として考えていない。つまり、色々な構造が可能であり、それは、恣意的に構築された物であるとしている。

だから、未開社会にもそれなりのルール=構造があると考え、西洋的構造との優劣格差を否定した。つまり、構造は差異的だと言う事だ。この構造の中で我々個人は主体的に生きてはいない。構造の中で外的に位置付けられて、生かされていると言う事だろうな。

進化論と構造主義について比較したんだが、突然変異・適者生存と言う進化論が、適正した者が残るとする、科学主義的捉え方を残している事で私は、構造主義的・ポスト構造主義的に批判した。つまり、構造主義は客観的(進化論的絶対視点)を持っていないと言うことだ。このような絶対視点はデカルトの残滓であるのだよ。

つまり、弁証法は前進していると言う目的論的構造なのだな。一方ポスト・構造主義は目的なき差異の戯れと言う事だ。

第三の波平
外部はどこにあるのか

「外部」がどこにあるか、考える必要があります。構造主義では内部が差異の体系と閉じています。共時的なのは「外部」がないからです。ポスト構造主義はここにあらたな差異を組み込みます。「通時的な差異」です。だから通時的差異と共時的反復(構造)です。

しかしこの通時はどこからくるのか。内部に閉じては生まれませんから、どこかに外部が必要ですが、あまり積極的に語られていません。

進化論は自然淘汰と突然変異です。これはともに「外部」なんですね。「外部」はなにかといえば、不確実性です。構造のような内部秩序を破壊する力です。進化論とはたえず不確実性にさらされて、作っては壊され、止揚することない変化のことです。現に生命史には恐竜などいくつもの絶滅の断絶があります。

「歴史」とはこの変化に目的をもった一方向性をみる目的論思想です。一般的に進化論というのは、いまだに弁証法的に湾曲されて理解されている。ナチスの優性思想から、現代の技術進歩思想にも応用されている。

しかし本当の進化論は、絶えず共時的反復(構造)と破壊し続ける通時的差異(自然の不確実性)をもったもので、目的論ではない。むしろ進化論は、目的論的ヘーゲルマルクスそしてナチスを解体するポスト構造主義的なのです。

第三の波平
進化は進歩しない

進化論の誤読がいまだに多いのでつづけます。人間は進化の頂点で、生命の歴史は人間への歴史であるという間違いが一般化しています。この誤読は目的論的な進歩史観としてイデオロギーとして応用されています。

人間が頂点なら、その人間の中にもさらに優劣があるという優生学による優良民族主義を産みます。また私たちが漠然と信じている進歩することが正しいという資本主義的イデオロギーは、進化論によって世界の絶対的摂理のように正当化されます。

これはまったくの誤読です。自然淘汰、環境適応という意味では、人間よりもバクテリアなどの原生生物の方が優れています。生命誕生から何億年と生き続けているわけです。

人間はたかだが数百万年で、生命の中ではまだ生まれたばかりです。さらに千年後も生き残っているかも疑わしい存在です。知能という高度な構造を持っているために経済性がわるく、生存を保つにはとてもデリケートな環境調整が必要な生き物なのです。

それに対して原生生物は様々な環境変化に強く、確実に生き残るでしょう。地球があるかぎり、どのようにすれば彼らを絶滅させることができるのか、想像ができないぐらいです。最近では、宇宙のあちことにいて、地球の生命の始まりは宇宙から飛来してはじまったのではともいわれます。

たしかにここ200年という生命史のピンポイントで、人間は環境を自在に操り、地球の王者のような顔をしていますが、それは人間中心主義です。たとえば環境問題の「地球にやさしく」はその典型です。環境を破壊すれば、弱い人間が絶滅します。その程度で多くの原始的な生物を絶滅することはできないでしょうから、人間絶滅後にまた新たな生命進化が起こるだけです。

だから環境問題の本質は、弱い人間が今後も生存するために、環境を飼いならしたいという要求でしかありません。進化論において、人間の位置はむしろ多様な生物の端っこの少数派です。

自然淘汰は、単に強いものが生き残るようなものではなく、熱いときには熱さに強いものが、寒いときには寒さに強いものが残るのであり、明日は環境はどのような顔を見せるか不確実で、それに生命がただ翻弄される姿です。ただ生命には環境変化を乗りこえようとする「力」があるということです。

考える名無しさん
貴方は「外部性」を強調し、外部がないとポスト構造主義にはならないと言う事のようですね。確かに、内部だけではどうしようもない静態的な構造主義になると言う事のようですが、はたして、単純そう言えるのか?ドゥルーズの襞(プリ)と言う概念は、外部と内部の界面に注目していますよね。つまり、内・外と言う二項対立的な捉え方に戻るわけには行かないからです。ですから、ポスト構造主義的、既存の構造からの逃走とは外への逃走ではなく内・外の二項性の脱構築ではないかと思うんです。

そこで、進化と言う概念をポスト・構造主義に求めるのは無理でしょう。進化とは外的環境の不確実な変化を前提にしているとしても、進化とはよりベターな方向性へ動物を変化させると言う意味があります。そこで、貴方の言う「進化」「変化」と言うべきではないでしょうか。

第三の波平
ボクがいった「外部」があるということのは二項対立の意味ではありません。構造主義には「外部」がありません。外部は排除され、内部が静的に構造化されている。それに対して、ポスト構造主義はこの二項対立を脱構築し、外部からの差異の侵入を記述する。

この表現が二項対立的ならば、外部はすでに内部にあることを暴露するということです。ボクが「外部」があるというのは、ポスト構造主義的です。そして進化も同じです。内部の中にすでに外部(不確実性)はあるということです。

考える名無しさん
構造主義ポスト構造主義を科学理論に従属させても仕方がないと思う。でないと「主体(性)」を嫌悪する悪しき相対主義になる気がするが。

第三の波平
創発性の時代

構造主義が自然科学に従属しているということではありません。自然科学は、とても狭くて特殊な学問です。そうではなくて、哲学も、科学もあるいは神学も含めて、大きな思想の潮流があるということです。今回の話で言えば、

①要素還元論=機械論=人は機械である
②非還元論有機構成論(創発性)=人(生物)は機械ではない。機械以上に成長(生成)する
この図式は、ギリシア哲学までさかのぼれるでしょう。さらに非還元論に関するもの、創発性は、近代以降、自然科学が古典物理学を中心に要素還元論(機械論)を指向したのに対して、ホッブスやロックの社会契約論や古典経済学など、社会科学で進みました。社会が都市化する中で生まれた「群衆と市場」という創発性をいかに管理すべきか、というニーズがあったからでしょう。そしてソシュールダーウィンも古典経済学から大きな影響をうけたと言われています。

1711〜1776 ヒューム コンベンション(近代の創発性の始まり?)
1723〜1790 アダム・スミス 見えざる手(ヒュームのお友達)
1724〜1804 カント アンチノミー(ヒュームから影響)
1766〜1834 マルサス 人口論アダム・スミスと古典経済学)
1770〜1831 ヘーゲル 弁証法(カントの乗りこえ)
1809〜1882 ダーウィン 進化論(マルサス人口論から影響)
1818〜1883 マルクス 下部構造(ヘーゲル+古典経済学)
1844〜1900 ニーチェ 力への意志(進化論から影響)
1857〜1913 ソシュール 差異の体系(古典経済学の価値論からアイデア
1908〜    レヴィ=ストロース 親族の構造(ソシュールから影響)
古典物理学の機械論は、論理実証主義あたりでその高揚の頂点をむかえます。世界大戦、ナチス共産主義のショックをうけて、20世紀は非還元主義的なものが浮上する。その流れにポスト・構造主義、システム論、複雑系があります。

さらに時代が非還元論へ向かうのは、複雑なふるまいを扱えるコンピューターシミュレーションの発展が大きいです。現在では地球シミュレーションや、進化、都市変化など様々なところで創発性がシミュレーションされています。さらに実社会に比べて、ネットが創発的な成長が早い場であり、ボクたちは日々眼の当たりにしています。たとえば2ちゃんねるなどの「祭り」であり、流行りではWed2.0ですね。まさにいまは創発性の時代です。

第三の波平
ポスト・構造主義は、生産性のない戯れの思想のように言われます。現に文化論としてはそのように使われている面も否めませんが、思想史の中に位置づけると、いまも有効な実働的な思想であるとおもいます。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板ポストモダン思想はなにを間違えたのか」スレッドhttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1154415147/615-724あたりからの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*2:画像元 http://www.elec.eng.osaka-cu.ac.jp/~minami/sci06G.htm