「痕跡」の道具性の強度

pikarrr2006-12-30

[議論]痕跡とプログラムと欲望 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061227につづいて、以下のid:voleurknknさんのブログ記事への感想です。

デリダスティグレール http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061229
「痕跡とプログラム」 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061222
「プログラムとリズム」 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061226

読ませていただきました。ボクの実力では細部まで理解するのは難しいですが、勉強をかねて、ボクなりの感想を書きます。




無意識と暗黙知


デリダのいうエクリチュールの物質性は物理的な物質とは違い、ハイデガー「存在とは時間である」というときに現れる存在論的な「痕跡」(存在の記憶)です。形而上学「歴史」では、時間によって生まれる「痕跡」=代補の運動が抑圧されていると考えられます。

そしてこのデリダがいうように、エクリチュール「痕跡」は記号全般に展開されます。たとえば情報伝達はまさにこのような「痕跡」の伝達過程であって、そこに焦点を当てることのが、メディオロジーです。そしてスティグレールは、ルソーのいう生の自然も「痕跡」であるということで、脱構築を試みということでしょう。

voleurknknさんによると、スティグレールは、このような「痕跡」「技術」(技術的外在化)と呼び、二つに分類します。

「記憶技術」・・・記号的反復。象徴的分節化を通して記憶を外在化する技術、言語はこの「記憶技術」の一部を構成するもの。

「技術システム」・・・物質的反復。「記憶技術」の出現以前からつねにすでに代補の運動を働かせていた。

そしてスティグレールの技術論によって重要なことは、この「記号的反復」以前の「物質的反復」「技術システム」です。この技術システム(物質的反復)の理解のポイントは「手」ということでしょうか。

そして重要であるのは、その最初の痕跡があくまでも手によってつかまれ形づくられる文字通りの物として生み出されたことである。ここに、技術固有の次元がなによりもまず物質的な外在化であるということの先史学的な理由がある。脳の発達には手の発達が先行するのであり、言語は脳の発達に結びついているのであるから 、それは先頭を切って物質へと介入する手に対してはつねに遅ればせに発達していくことになる。スティグレールが記憶技術に対する技術システムの原理的な先行性を主張するのもそのことに平行する。

先には書きましたが、ここでは、フロイトの無意識とポランニーの暗黙知の違いを思い起こします。職人が技を覚える、自転車が乗れるようになるような暗黙知は言語(無意識)では表現されません。さらにこのような技術システム(暗黙知)は、外在化された「痕跡」(記憶)との関係で現れる、ということでしょうか。

このように考えると、voleurknknのいう「痕跡とプログラム」ということがわかりますね。たとえば言語においても、記号として言語(記憶技術)とその言語を道具として使う技術システムという分類ができます。




コギトの脱構築


デリダは、デカルトから継承された認識論的「心」=コギトを、物質性によって脱構築したといえます。これは、フロイトの使い方に特徴的です。

たとえばラカン「無意識は言語活動のように構造化されている」というように、フロイト構造主義の源流と見ました。デカルトのコギトという理性的な意識が無意識によって無効化されていると言われますが、ここにはデカルトのコギトの構造が維持されています。すなわちコギト(心)とは無意識(言語)であるということで、心身二元論は維持されているのです。

デリダは、これとは異なり、ラカンが排除したフロイトの力動論における物質性を、存在論的に読み込みます。それによって、心は物質(身体)であると、心身二元論脱構築します。そしてスティグレールは、デリダが心から剥き出させた身体の尾を、積極的に経験論的な存在論へ接合しようとしていると言えるのではないでしょうか。

デリダ「散種」は、エクリチュール(痕跡)が様々なコンテクストの中で、反復運動すると考えられますが、スティグレールの技術論では、コンテクストにも記憶があるということです。これは、やはりパースの記号論の記号と解釈項に近いです。さらにポランニーの暗黙知にも通じるように、すごくプラグマティックです。




「痕跡」の道具への転落


そしてこの地点で、「痕跡」という物質性は道具へと転落するのではないでしょうか。すなわち心は脱構築され、さらには身体一元論へ還元されます。

記憶技術のプログラムはあくまでも技術システムのプログラムに同伴されなければならないのだが、しかしながらその同伴が確立されているという条件においては、記憶技術のプログラムは独自に反復の回路を形成していく。

たとえば書物に書かれている言葉は、紙という痕跡を生産する技術システムにおけるプログラムへの根源的な依拠を完全に忘却しながら、それまでに蓄積されてきた言葉の記憶に接続し、そして新たな言葉の接続を待期する。それらの言葉の接続を支える技術システムのプログラムが問題なく機能しているかぎりは、記憶技術は技術システムのことを忘却していることができる。逆に言えばそれが機能不全に陥ったときには、記憶技術のプログラムもまた支障をきたし、そこでの反復は滞ることになる。

たしかに以下のようにプログラムの非決定性は強調されています。しかし「遺伝的記憶の層である系統発生、生物個体の神経的記憶の層である後成系統発生に加え、人間においては技術の次元で相続されていく後成系統発生というものが存在している」と主張されるとき、「痕跡」の道具への転落の強度は増し、すなわち「機械」に象徴されるものに近接します。遺伝的、生物的プログラムは機械的な静特性を持ちます。そこには人間の技術プログラムの自由度に対して、誤配の可能性が極度に低いということが特徴です。

そもそも遺伝子のプログラムは、その厳密なプログラム性のただなかに変異を通して非決定性を持ち込んでいた。その非決定性はあくまでもプログラムによってもたらされているものだが、かといってその非決定性の帰結、すなわちその非決定性を通してもたらされる差異の内実そのものはプログラムされていない。

プログラムが決定しているのは差異が生み出されるにいたるまでの反復する手順であり、そういった手順なくしてはいかなる差異も生み出されえない。プログラムはその反復可能性を通して差異が生じるにあたっての可能性の地平を構成するのだ。その地平の外において差異が生じるということは不可能である。

いわゆる「機械」が象徴するようなさしあたっては差異を生み出さないプログラムというのは、プログラムの歴史のなかのきわめて特殊な事例でしかない 。




プログラムとコンテクストにおける他者性


デリダ「痕跡」の重要性は、その物質性にあったのでなく、「散種」としてしめされるようにコンテクスト、すなわちプログラムの無限性にあったのではないでしょうか。たとえばナショナリズムでいわれる日本民族というものは、多様な「コンテクスト」による意味(散種)が事後的に転倒されたものでしかない。そしてこの転倒によって抑圧された多様な幽霊(他者性)へ応答することに倫理が求められます。

すなわち「痕跡の道具性」の強度が増すことは、倫理的な他者性の抑圧に繋がります。これは、先にボクが指摘したことにも繋がります。

たとえばボクならば、人間と動物の断絶を強調するために、「痕跡とプログラムと欲望」といいます。あるいはパース的に「記号(痕跡)と解釈者(コンテクスト)」。プログラムに比べて、解釈者(コンテクスト)は、より曖昧で、欲望的であり、自由度が高いということです。これが、動物と違う人間技術の特性です。

たとえばvoleurknknさんがいう「ある言葉という痕跡の相続はその言葉をどのように用いるかというプログラムの相続であり、その痕跡の相続を追跡していけば、それに結びつくプログラムが次第に変化していく様子も観察できるだろう。」は、道具的です。しかし言語の相続はもっと曖昧であり、痕跡という物質性(エクリチュール)以上に伝達されるプログラムなるものがあるのでしょうか。あるとしてもそれはもっと曖昧なコンテクストであり、その場その場の解釈者に委ねられるのではないでしょうか。

人間は、環境をよりドラスティックに改善していきます。人間はテクノロジーが大好きです。より速くより微細に、そこは、アフォーダンスを超えた異常な欲望があります。再度いえばボクはこれを「機械論の欲望」と呼びました。アフォーダンスに対する過剰は、フロイトに倣って「快感原則の彼岸」と呼ぶことができると思いますが、精神分析ではここに動物と断絶した「人間」を見ます。

近代以前はアフォーダンス的であったのかもしれませんが、近代以降の科学の発展は過剰です。ここに近代以降の心身二元論的解離があります。このような過剰な例として、「多くの革新的な技術が戦争のために生み出されてきた」ということががあります。またvoleurknknさんが例に上げる「ハンマー」「ものを叩く」というコンスタティブな意味以上に、たとえば「武器」というようなパフォーマティブであり、欲望的な意味を持ちます。そして遺伝子や、アフォーダンスよりも柔軟性があり、欲望的なものこそが、人間技術の特性です。


[議論]痕跡とプログラムと欲望 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061227




疎外論


問題は、「痕跡の道具性」の強度です。強度が開かれることでデリダは倫理的な他者性を開きました。ここで、ボクはスティグレールとvoleurknknさんでは、「痕跡の道具性」の強度が微妙に違って、voleurknknさんがより強度を求めているように感じました。いかがでしょうか?

ボクは、デリダラカンは裏表の関係にあると言いました。ラカンは言葉(シニフィアン)によって「疎外されざるおえない」人間を描きます。それに対してデリダは同じような構図から「疎外から(エクリチュールによって)開くこと」を説きます。ここでスティグレールが示すのはラカンにとても近いかもしれません。エクリチュール(代補の運動)を抑圧するのは、シニフィアンでなく、静化したコンテクスト=プログラムです。言葉でなく、技術によって疎外される人間です。それが、「「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレールhttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911のような技術疎外論へ繋がるのでしょう。

コンテクストがプログラム化(機械化)されることで他者性が抑圧される。これはマルクス的な疎外論そのものです。そしてフーコー「生権力」ネグリ=ハートの「帝国」論や、流行りのフラット化、Google化議論にも繋がると思います。



ボクなりの解釈で、間違っているところも多々あると思いますが、ご容赦願います。
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