痕跡とプログラムと欲望

pikarrr2006-12-27


フーコーの権力論とグレイゾーン化」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060920のコメント欄からの転用です。参照として、id:voleurknknさんのブログの以下の記事とコメント欄に連動しています。


「痕跡とプログラム」 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061222


「プログラムとリズム」 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061226


id:voleurknkn
たびたびお邪魔させていただいています。フーコーにおける規律訓練ですが、「規律の内面化」についての「技術」は近代を待たずとも大昔からあった、というタイプの批判はまったくナンセンスだと僕は考えています。フーコーはあるテクノ‐ロジーの出現に焦点を当てているのであって、つまり「ロゴス」という論理的な思考プロセスを通して作り上げられた反省的な理論としての、「規律の内面化」そのものに焦点を当てたテクノロジーが発達した時代を分析しているのであって、そのような事態は近代以前には存在しなかったわけです。

そこで問題となるのは言説と技術とのカップリングであり、「内面化は大昔からあった」という批判は、その「内面化」なるものを生み出している言説の布置の特殊性を完全に無視して、事後的に「内面化」モデルを超時代的に当てはめているに過ぎません。

同じく、生権力に関する議論も、そこではどのような統治形態が現れているのか、という発想だけでは片手落ちになってしまうと思います。その場合には、その形態は大昔からあった云々って話と容易に繋がっていくからです。

重要であるのは、特定の統治形態を見出すことではなく、特定の統治形態とそれを生み出している言説的布置、さらにはそれを具体化する特定の技術とのカップリングのありかたを見て取ることだと思います。純粋に方法論的な観点からの意見ですが。

id:pikarrr
フーコーが科学哲学に源流をもつことを考えると、voleurknknさんが言われているテクノロジーが発達した時代を分析しているというのはもっともです。しかしそこがまたフーコー批判の論点になっています。有名なフーコー派とラカン派の対立は、精神分析が人間の根元とする欲望論が、フーコーにおいては近代のテクノロジーによる「発明」であると批判されることです。すなわちフーコーはテクノロジー(構造)に還元しすぎるのではないか、ということです。

これは、もしかするとvoleurknknさんのブログへ書いた、心身二元論の乗りこえの問題に繋がるのかもしれません。心はテクノロジーへ還元されるか、というようなことです。

フーコーの議論を外れますが、voleurknknさんのブログのコメントには書かなかったのですが、ボクは「反復」と対立するものとして「1回性」を考えています。反復と差異について、差異をより積極的に評価するものです。

たとえばモバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061219に書いたように倫理的なものです。

その死が自らの身近なものであるとどうだろうか。強いショックと悲しみを感じるだろう。身近な人は私にとって唯一の人であり、その1回性は反復に緩和することができない。これは倫理の問題である。「身近」な存在ほど、自分にとってかけがえのない、すなわち反復されない存在ということだ。反復へ解消されない唯一の存在であるとき、自意識がうまれ、生への緊張が生まれ、そして他者の尊重という倫理感が生まれる。

モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061219
そして以下のvoleurknknさんのブログに書いた以下のコメントに繋がります。
そこで、「人間と動物という二項対立を棄却し、それらをともにプログラムという概念を通して一元的にとらえようとする」ことへの違和感を感じました。哲学における人間と動物の二項対立には心身二元論的な意味があります。それで考えると、これはあくまで《拡張された器官》としての身体の層であり、心は残されるのではないかということです。心は、記憶としての「プログラム」でなく、自由意志のようなものであり、技術を使う「主体」です。

「痕跡とプログラム」のコメント欄 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061222
id:voleurknkn
スティグレールは、フーコー的というよりは実はむしろラカン的な色合いが強いんです。「象徴的貧困」の二巻では、フロイトの器官的抑圧の概念を技術哲学と接続したりもしています。それがどう接続されているのかまで説明することができればいいのですが、その辺に踏み込むと読んでいただかなければならなくなる文章が飛躍的に増えてしまうのです。

ただ、自分のところのコメント欄にも書きましたが、今回アップさせていただいた箇所では、反復と一回性がどのように関わるのか、という点にも簡単ながら触れられています。スティグレールの基本的な問い方は、反復と一回性を対立させるのではなく、反復はいかにして一回性への信憑(←これが重要)を成立させることができるのか、という点にあります。

ここでの肝は、一回性は存在するのではなく、意識によって信憑されるものである、という点です。つまり、一回性は「信じること」に関わるのであって、じつは反復とは次元がちがうのですね。ただしその「信じること」は、反復を通してしか可能ではない。その関係性をスティグレールは探求していきます。この辺も難しい問題なのですが。

id:pikarrr
そうですね。技術論と対照的に、スティグレール精神分析的たと思いました。たとえばボクが言及させてもらった「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911でも、心身二元論の構造があります。テクノロジーによって象徴的貧困が起こることと、その反動としての「アクティング・アウト(決行)」が語られています。

スティグレールの基本的な問い方は、反復と一回性を対立させるのではなく、反復はいかにして一回性への信憑(←これが重要)を成立させることができるのか、という点にあります。つまり、一回性は「信じること」に関わるのであって、じつは反復とは次元がちがうのですね。ただしその「信じること」は、反復を通してしか可能ではない。その関係性をスティグレールは探求していきます。

おもしろいですね。ボクが倫理的を強調するのもまさに次元が違うということを言いたいのです。voleurknknさんのブログのコメントでいったこと、「人間と動物という二項対立を棄却し、それらをともにプログラムという概念を通して一元的にとらえようとする」ことへの違和感を感じました。哲学における人間と動物の二項対立には心身二元論的な意味があります。」ということも、次元が違うということです。

これは簡単には認識論と存在論の違いということではないでしょうか。通常、科学を哲学的に語るときに、認識論的に語られます。世界は「ものそのもの」という認識できないものですが、科学は実在を疑わずに正しいと信じ、要素に還元しその法則を見いだす一つの認識方法ということです。

「生命記号論ASIN:4791762177)のおもしろいところは、そうではなく、人の認識以前に生命は記号論な構造を持っているということです。それは科学的な認識論でなく、存在論ということでしょう。voleurknknさんのいう痕跡もプログラム(反復)も存在論的なものだと思います。その地平で人間と動物の二項対立は解体されるということではないでしょうか。

しかしボクが反復と1回性というときには、これは認識論です。人は世界を反復として認識する。なぜなら全てが1回性と認識するほどの処理能力をもっていないため。しかし大切なものは1回性で認識する。それが倫理です。ボクはこの認識論と存在論の次元が違うということが重要な点だと思います。

id:voleurknkn
スティグレールにおいて重要な概念の一つとして、「事後性」というものがあります。精神分析の文脈から借りてこられたこの概念は、pikarrrさんが「認識論」存在論と呼ばれているものの関係性を理解するのに役立つ気がします。pikarrrさんはホフマイヤーの次の言葉を引用されていました。

生命はその全てが記号過程、記号操作に立脚する。記号とは元来、柔軟であり、そこでは間違いが避けられない。その結果が記号自身に反映され、少しずつ様々な方向へ移行していき、時空間の中で新しい何かとなり、また習慣化していく。・・・結局のところ自然界と人間の関係は、通常に思われているよりも、もっと近いものとなる。

   「生命記号論 ジェスパー ホフマイヤー (ASIN:4791762177)  P50
ここでの「習慣化」は、生物個体と自然環境の中で繰り返されるアブダクションが、ある一定の冗長性を獲得していくことだと思います。ここで生物個体は自然環境を「認識」しているわけではなく、「うまくやっていく」ための自然環境に対する複雑な反応パターンを構築しているだけであるわけですよね。

で、この習慣化のモデルというのは、パースのプラグマティシズムにおける科学イメージと同様である気がします。科学は世界を、たとえばいわゆる表象モデルがイメージするような形で認識しているのではなく、絶えざるアブダクションの過程で安定的な記述パターンを構成していくだけである、と。

それは世界そのものを認識しているわけではないが、しかしその記述の試みが際限なく繰り返されていくことで、科学が展開する世界の記述は、あたかも世界そのものを認識しているかのように通用することになる、と。この科学観は、パースがカントの純粋理性批判に大きな影響を受けたということにもつながる気がします。

とすれば、世界そのものを認識するとイメージされるいわゆる「認識」というものたんにまちがっているのか。いやそうではない、とスティグレールは答えると思います。スティグレールはそこに「投影」という概念をもち込みます。意識というものは、確立された反復パターンを通して世界の統一性を投影する、と考えるのです。ここに、「世界そのもの」というものへの信憑が生み出される。

人間と世界との間に実際に成立している関係性というのは、「習慣化」というような一定以上の安定性を有した反応パターンの成立でしかないのですが、そこで成立している反応パターンを足がかりにして、投影作業を通して意識は世界の統一性そのものを認識していると信じる。

ここに飛躍が生まれるとともに、事後性の論理が働きます。というのも投影によって意識は、習慣化としての反応パターンと世界の統一性との時系列的な関係を逆転させ、世界の統一性を認識することで習慣的な反応パターンが生まれている、と考えるからです。

科学における「認識」について起こっているのがまさにこのことですね。世界についての安定的な記述パターンでしかないものが、世界そのものの「認識」にもとづく記述であると錯視される。

ラカンも例に挙げるパスカルによる信仰の定式は次のように述べています。「信じるから祈るのではない。祈っているうちに信じるようになるのだ。」そしてさらに、祈っているうちに信じるようになると、信じているから祈っていのだと錯覚するようになる、と付け加えることができるでしょう。

反復と一回性とが次元がちがう、ということで僕が述べようとしたのは、この事後性の論理における地位の違いです。祈りが反復であり、一回性が神です。スティグレールはその両者の関係性を固有言語性というイメージで理解します。言葉はどこまでも反復のネットワークでしかないけれど、しかしひとはそこにそれぞれの人間の固有の文章表現というものを見出すことができる。

そのような固有言語性として一回的なものの出現を理解するわけです。ただしその一回的なものは存在するものではありえず、それゆえ存在するものを認識するというプロセスは成立しません。一回的なものは反復の効果として投影されるものですが、そこで事後性の論理が働き、その効果として見出された一回的なものが実体化され、その精神のようなものが言葉に外在化されたのだ、と錯覚されます。

ここにはいうまでもなく「作者」のモデルが現われますね。一回的なもの、というのは明確に「作者」というモデルによって中心化された特定のエピステーメーに結びついているものです。

倫理的なものは存在するものではない、というのはデリダも繰り返し述べていることだと思います。一回的なものは、事後性の論理を作り上げるものとしての信じられる対象だと思います。たとえば石器時代の人間にも倫理的な態度としても一回性はそなわっていた、とすることはナンセンスです。これは自由と平等に関しても当てはまることです。自由や平等は存在するものではなく、それを信じることによって世界が特定の方向に導かれていくような(カント的な意味での)理念です。

また、神に関しても、それが存在するかしないか、神は認識されるかされないか、という枠組みで捉えることはナンセンスです。神は信仰されるものでしかないからです。「神は死んだ」という宣言が神への信仰に対する挑戦であると捉えれてたのは、神への信仰が事後的に神の存在と同一視されていたからです。

神への信仰が神を生み出しているにも関わらず、神が存在するから神を信仰している、という風に事後性の論理が働いていた。しかしニーチェによる「神の死」の宣言は、信仰そのものへの挑戦ではなく、信仰という飛躍的行為を事後的に見出された神という存在するものによって根拠づける態度であった、と僕は理解しています。そこに信仰という行為そのものの飛躍を押さえつけ、永劫に変わることのないとされる「存在者」への従属という様態が生じます。

とりあえず、「一回性の認識」ということが言われるときには、そこには明らかに事後性の論理が働いているのではないか、ということが僕の言いたいことでした。このことは、一回性というものへの価値の否定ではありません。pikarrrさんが述べているように、一回的なものは倫理の次元に関わるものです。その倫理の次元に関わるものを、認識される対象によって根拠づけるべきではないのではないか、ということです。

最近出回っている菊池誠氏によるニセ科学断罪の動画でもそのことが言われてましたね。倫理とは認識によって根拠づけられるものではなく、決定的に無根拠なものです。そのことを理解するのを妨げているのは、無根拠なものは無意味なものである、というまさに形而上学的な臆見です。倫理的な意味は無根拠なところにしかない、と述べるデリダは、起源への反復の先行性を徹底的に主張していていました。スティグレールはそのデリダの議論を大きく引き継いでいます。

ながなが書いてしまいました。失礼しました。

id:pikarrr
こちらに書かせていただきますが、「痕跡とプログラム」のつづきのアップありがとうございます。(「プログラムとリズム」 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061226) 長文なのでじっくり読ませていただいています。voleurknknさんが考えていることは、ボクが思考してきたことととても近く、さらに深いので、大変おもしろいです。感想はまた書かせていただきます。

またこちらへの返答ありがとうございます。これも大変おもしろいです。本質的には同じことを考えています。ボクはラカンデリダは裏表の関係にある」と言いました。ボクが倫理というときに、voleurknknさんが考えるのは、まさにこの裏表の構造があります。

たとえばボクは、「偶有性から単独性への転倒において神性は宿る」と言いました。これは、デリダラカンなどからとったものことです。偶有性(=不確実性=カントの「ものそのもの」)な世界に対して、単独性(1回性)へと転倒する(=事後性)によって、人は世界を信じるということです。これは認識論的ですから、 voleurknknさんがいうよ存在論的につなげれば、「反復」から単独性への転倒において神性は宿る」とでもなるのでしょうか。

しかし、voleurknknさんの考えに比べて、強調したいのは「神性」です。「神性」とは「(超越論的)他者」です。たとえばボクは「痕跡とは必ず他者の痕跡である」といいました。人は痕跡に必ず他者を見いだします。生物のあの驚異的に精巧で美しい造形(痕跡)はなんでしょうか。人々はそこに「生物個体と自然環境の中で繰り返されるアブダクションが、ある一定の冗長性を獲得していく」とは考えず、そこに「神性」=創造者(大文字の他者)をみます。それが、驚異であり、美しいのは、自分と同じ「他者」がそれを作ったという親近感、尊敬、敬意からきます。

これはラカンデリダ「手紙は必ず宛先に届く」の議論につながります。ラカン「手紙は必ず宛先に届く」に対して、デリダ「手紙は必ず宛先に届くとは限らない」といってそれは臆見であると批判しました。しかしラカンがここでいっていることはそんな当たり前なことではなく、たとえばどのような世界観も神の視点ではなく、一つの思想(イデオロギー=錯覚)であることからは逃れられないということです。

それは、「生物個体と自然環境の中で繰り返されるアブダクションが、ある一定の冗長性を獲得していく」という存在論的な世界観においてもかわりません。その存在論「必ず宛先に届いている」のです。

さらにこのようなイデオロギー性を考えると、存在論は他者性が欠落する傾向があることが気になります。極端にいえば、そこに他者という不確実性を排除し、世界を征服したいいう欲望が存在するのでは、ということです。これは科学が還元主義を目指す欲望であり、ボクは「機械論の欲望」と呼びます。たとえばハイデガー存在論の問題も、現象学を根底にしていることもあって、「他者」がいないということだと言われます。ハイデガーナチスへ向かった理由の一つとも言われています。

認識論と存在論は次元が違うのですが、だれも認識論からは逃れられない。これは一つのジレンマです。ボクがいうこともなんらかの欲望のもとに語られているわけです。そしてラカンのいう倫理は、欲望がないように振る舞うことが欲望的であるということであり、そこに欲望があることを認めることが倫理的なことである、ということことではないでしょうか。そしてここに哲学的な心身二元論的断絶の本質があります。

この事後性から逃げられなさが、まさに精神分析的な欲望です。そして生物と人間を分けている断絶です。このような欲望は、精神分析では人間が早産で生まれることで、他者との特別関係に入ることが根拠とされます。

voleurknknさんの話はおもしろいので、ついつい長文になってしまいます。

id:voleurknkn
pikarrrさんがおっしゃるように、最終的な結論のところは僕もpikarrrさんも同じようなところに落ち着いていると思うのですが、そこにいたるプロセスがちょっとちがう、ということなのだと思います。pikarrrさんは次のように書かれています。

>人は痕跡に必ず他者を見いだします。生物のあの驚異的に精巧で美しい造形(痕跡)はなんでしょうか。人々はそこに「生物個体と自然環境の中で繰り返されるアブダクションが、ある一定の冗長性を獲得していく」とは考えず、そこに「神性」=創造者(大文字の他者)をみます。

ここでおっしゃられているような「神性を見る」というようなことはかならず起こるわけではなく、それが生じるためには昇華=崇高化というプロセスが経られなければなりません。事実、自然に神あるいは超越的な痕跡を見る人間も見ない人間もいます。そのことはあらゆるモノに当てはまります。

そしてスティグレール「象徴的貧困」のテーマもそこにあります。つまり、スティグレールが現代を脱昇華=脱崇高化(これが象徴的貧困)の時代だと見ていて、それゆえ昇華=崇高化がいかにして成立しうるものであり、またいかなる場合に成立しないのか、というその条件そのものを徹底してとうていくわけです。

そしてそこに、ラカンとは違い具体的な技術的配置というものが考慮されることになります。そこにラカン的な他者論を前提としながらも、スティグレールラカンとは決定的に異なる点があります。象徴界が機能するためには、まずは感性的配置がその準備をしなければならない、ということです。

手紙と宛先に関するラカンデリダの相違は、僕の理解するところでは次のように解釈できます。ラカンにおける「必ず宛先に届く」というのは意識に生まれる信憑の問題であり、デリダにおける「届くとは限らない」というのはその信憑を可能としている実際の反復のネットワークの問題です。

ここで重要であるのは、「届くとは限らない」の関わらず、意識は「必ず届く」と信じる、というそのギャップの意味を理解することだと思います。手紙に関するラカンデリダの態度を巡る混乱は、「手紙は必ず届く」という意識の信憑の次元で成立する事態を、「実際に手紙は必ず届く」という事実の次元と混同していることにあると思います。

事実の次元、つまり記号そのものの働きにおいては、デリダが述べるように「届くとは限らない」というよりもそもそも「届く」とか「届かない」を成立させる意識の信憑とは違う次元でそれは作動しているわけです。 僕の主張とpikarrrさんの主張の違いは、「手紙は必ず届く」という事態そのものの可能性を構成している反復のネットワークの具体的な層を徹底的にまずは分析していくべきだと僕が考えている点です。一方のpikarrrさんは、最終的に成立している「手紙は必ず届く」についての意識の信憑に焦点を当てているように思われます。

ラカン的な意味での「手紙は必ず届く」という点については僕も完全に同意するのですが、それを成立させるメカニズムをどのように理解するのか、という点で態度がちがうわけです。

僕の基本的な発想は、目の前にしょーもないゴミが落ちていることとか、あるいは女の子からきたメールを読んで自分に気があると勘違いしてしまうこととか、あるいは夕焼けを見て超越的存在者のことをなんとなく思ってしまうこととかいうそういったあらゆることを、人類の誕生の時点までも考慮した上で、それがいかなる事態であるのかということを説明できるような言葉の道具立てを作りたい、というようなものです。人間固有の早産という性格もそこに含まれていますし、フロイトが器官的抑圧と名づけたそのことによって生じる原的抑圧についてもスティグレールは論じています。

pikarrrさんがおっしゃるような意味での「他者」の成立が、それぞれ固有の場面で具体的にどのようなプロセスを経て生じているのか、ということを理解することを動機として、まず僕はスティグレールの議論から痕跡とプログラムという対を取り出しました。僕の中ではこの概念装置は、「他者」の成立とまったく矛盾しないどころか、まずはそこまで抽象しなければ、「他者」の成立の具体的な諸相は理解できない、と考えています。

ということで、僕とpikarrrさんはその意味ではまったく対立していなくて、僕としては、pikarrrさんのヴィジョンをより現実に即して理解するためには技術哲学を経る必要であり、そこを僕は開発しようとしているのだ、という風に考えています。

あと、認識論と存在論という言葉はちょっと内実が曖昧な気がします。たとえばフッサール現象学は徹底的に認識の問題を取り上げているわけですが、それでもある点においてハイデガー存在論と通じ合うところがあります。この事態は、認識論と存在論という対立項ではなく、ロゴスというきわめて形而上学的なひとつのエピステーメーに関わるものです。

そしてそのエピステーメーというものを考慮した場合、pikarrrさんのおっしゃる意味での認識論もあきらかにロゴス的なものです。そして一回的なものの認識というものは、そのロゴス的なものをさらに純粋化したものであることになります。しかしこの辺の説明はかなり大変なので(これに関してもすでに書いていますが、やはり原稿用紙換算で300〜400枚分になってしまいます)、後回しにさせていただきます。

id:pikarrr
丁寧な返答ありがとうございます。voleurknknさんがいわれるように、ボクもデリダスティグレールに感銘し同意している点で、voleurknknさんの概念装置(痕跡とプログラム)には賛同します。しかしまたラカンの倫理にも賛同しています。この論点は、おそらくある種の現代思想の臨界点ではないでしょうか。

>ここでおっしゃられているような「神性を見る」というようなことはかならず起こるわけではなく、それが生じるためには昇華=崇高化というプロセスが経られなければなりません。

ラカン「手紙は必ず宛先に届く」というときには、「必ず」の重要性を考えなければいけません。ラカンは、人間は「必ず」超越的なもの(他者)を見るということです。それが、動物と断絶している人間、心がある人間、心身二元論の断絶ということです。

ラカンの思想は、他者の思想です。精神分析でいえば、人間は早産でうまれ、生まれてもまだ母と未分化で、そこに絶対の幸福感を得ます。その後、母と分離され、他者(母)の鏡像をインストールされ(想像界)、さらに母から去勢され、他者(言語=社会=象徴界)をインストールされるという、二重に疎外されることで大人になります。だから人はたえず絶対の幸福感=他者の地点(現実界)を求め、他者を欲望しつづけている存在です。昇華とは、このような欲望の「業」を社会的な行為に転換し、一時的に回避する方法でしかなく、欲望の本質ではありません。

たとえばクリプキが提示したヴィトゲンシュタインの規則のパラドクスでは、数学というものの正しさはなにによって、保証されるのか、と考えられます。それはクリプキによれば、数学を活用する集団の同意です。大澤はこれを第三者の審級と呼びました。すなわちそのような同意の集団が明確にあるわけでなく、人々の中でそのような集団があるだろうと信じられるという、大文字の他者によるものであり、それを作動させるのは、他者への欲望の総体です。

たとえば、デリダ「手紙は必ず宛先に届くとはかぎらない」ということのジレンマは、このような神性=「信憑」から逃れることです。それは「信憑」脱構築し続けることです。止まったら、ある種の「信憑」にとりつかれます。デリダ脱構築は正義である」といいましたが、これは、とまらないこと、宙づりにしつづけることにのみ「正義」があるということです。 たとえばデリダは自己同一性を脱構築するために、サインをわざと間違えたり、「私はデリダであって、デリダでない」というような発言をしています。このようなふるまいはもはや滑稽であり、ジジェクに言わせれば強迫神経症です。

さらに、voleurknknさんが「人類の誕生の時点までも考慮した上で、それがいかなる事態であるのかということを説明できるような言葉の道具立てを作りたい」というとき、こんな欲望的な発言があるでしょうか。そしてこれは必ず「誰か」に向けられています。

他者の次元を強調しましたが、ボクは、自然との自己完結的、プラグマティック(実働的)に生きていることにも同意しています。心臓が鼓動するのに他者の必要がなく、技術は他者が必要ない次元で作動しています。ラカン「無意識が言語(活動)のように構造化されている」というのに対して、ポランニーがいった、体で覚えるような技術の習得という暗黙知の次元は、言語(他者)とは異なる次元があります。

そして言語を技術(道具)と考えれば、voleurknknさんが言われるように、象徴界が機能するためには、まずは感性的配置がその準備をしなければならない」ということになると思います。差異と反復、そして痕跡という物質ととプログラムの代補の運動が創発的に世界を構築していくということには同意しています。

しかしまたボクは、この反復の世界が「身体の次元」であるとも思っています。そしてこれに対立する「心の次元」として1回性の世界が存在する。そして反復の世界観の確からしさは、1回性によってしか保証されない。「世界を説明できる言葉の道具立てを作りたい!そしてこの反復の世界が正しい!この私が信じる!」という1回性です。1回性から逃れているように語る言説こそが1回性そのものだ、というです。

哲学は、身体(反復)へ還元されることに対して、たえず懐疑的であるべきだと思います。それが哲学の倫理です。 認識論と存在論という言葉の曖昧さも、存在論形而上学の一形態でしかないからです。ハイデガーが人間を存在論的に現存在と呼ぼうが、ハイデガーが人間である以上、やはりハイデガーという人間の認識論から逃れることはできないということです。

id:pikarrr
ここまで書いて、最初の懸念にもどりました。「プログラムとリズム」http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061226の感想も含めて、こちらに書かせていただきます。

人間と動物という二項対立を棄却し、それらをともにプログラムという概念を通して一元的にとらえようとする」ことへの違和感を感じました。哲学における人間と動物の二項対立には心身二元論的な意味があります。
再度言えば、voleurknknさんの概念装置(痕跡とプログラム)には賛同しますが、voleurknknさん、スティグレールの立ち位置はとてもあやふやな点があるのではないか、と思いました。人間と動物をつなげようとしながら、その「断絶」に言及するということです。

スティグレールが、「遺伝的記憶の層である系統発生+生物個体の神経的記憶の層である後成系統発生+人間においては技術の次元で相続されていく後成系統発生」を指摘するとき、voleurknknさんはここに「痕跡とプログラム」という連続した概念装置を見いだすわけです。

たとえばボクならば、人間と動物の断絶を強調するために、「痕跡とプログラムと欲望」といいます。あるいはパース的に「記号(痕跡)と解釈者(コンテクスト)」プログラムに比べて、解釈者(コンテクスト)は、より曖昧で、欲望的であり、自由度が高いということです。これが、動物と違う人間技術の特性です。

たとえばvoleurknknさんがいう「ある言葉という痕跡の相続はその言葉をどのように用いるかというプログラムの相続であり、その痕跡の相続を追跡していけば、それに結びつくプログラムが次第に変化していく様子も観察できるだろう。」は、道具的です。しかし言語の相続はもっと曖昧であり、痕跡という物質性(エクリチュール)以上に伝達されるプログラムなるものがあるのでしょうか。あるとしてもそれはもっと曖昧なコンテクストであり、その場その場の解釈者に委ねられるのではないでしょうか。

たとえば生態心理学にアフォーダンスという言葉があります。「空間において、物と生体との間に出来する相互補完的な事態」ということで、生物と環境との相補的な関係であり、voleurknknさんの「痕跡とプログラム」に近いように感じました。

しかし人間は、環境をよりドラスティックに改善していきます。人間はテクノロジーが大好きです。より速くより微細に、そこは、アフォーダンスを超えた異常な欲望があります。再度いえばボクはこれを「機械論の欲望」と呼びました。アフォーダンスに対する過剰は、フロイトに倣って「快感原則の彼岸」と呼ぶことができると思いますが、精神分析ではここに動物と断絶した「人間」を見ます。

近代以前はアフォーダンス的であったのかもしれませんが、近代以降の科学の発展は過剰です。ここに近代以降の心身二元論的解離があります。このような過剰な例として、「多くの革新的な技術が戦争のために生み出されてきた」ということががあります。またvoleurknknさんが例に上げる「ハンマー」「ものを叩く」というコンスタティブな意味以上に、たとえば「武器」というようなパフォーマティブであり、欲望的な意味を持ちます。そして遺伝子や、アフォーダンスよりも柔軟性があり、欲望的なものこそが、人間技術の特性です。

voleurknknさんは、この断絶に対して、とても曖昧な感じがします。たとえば、「民族性」ははたして、「痕跡とプログラム」に還元されるのか。そこにある「他者性」への欲望という剰余が生まれるのではないのか。

明らかに、voleurknknさんは、ボクよりも知識があり、よく考えられていますので、ほんとうはもっと深く、広く言及すべきなのでしょうが、ボクの実力としては、以上のような限定的な部分への感想しかできません。ご容赦願います。

id:voleurknkn
この辺りの議論は、やはりアドホックな説明ではなくて、体系的な記述が必要となるのかもしれません。明らかにコミュニケーション効率が落ちている気がするので。とりあえず自己反省としては二点挙げられる気がします。

1、はてなにアップした範囲での痕跡とプログラムの議論と、信憑や「他者」の議論との連続性と非連続性との関係の説明をしなかったこと。

・・・アップした文章は、痕跡とプログラムという概念装置を、技術的客体という事象に即して導入しているものですが、そこではまだ動物と人間との断絶がどこにあるのかということはまったく議論されていないのですが、この場所ではむしろ「他者」の問題などその断絶の方に焦点が当たりました。

そのせいで、ここでの議論がはてなにアップした文章の直接の注釈というような形に結果的にはなってしまったかもしれませんが、実際にぼくが試みたのは、まだあの部分を踏まえた上で展開されていく議論の圧縮的説明でした。その辺のステップをうまく整理できなかった気がします。

2、その上で、「痕跡とプログラム」という基礎的概念装置が、実は倫理的なもの、「一回的なもの」「他者」というものをまったく矛盾しないどころか、それらの根本的な条件をなしているということと、それがいかにしてであるのかということを説得的に説明できなかったこと。

・・・この辺は、能力上の問題、分量の問題、参照先の限定の問題などが原因として考えられます。進化論が示すように人間という種は生命体一般、動物一般の下位区分であるわけですが、pikarrrさんがおっしゃるようにそこには大きな断絶もあります。その連続関係と非連続関係を同時に捉えること、これがいちばんの難問である気がします。

そこを、ここでは、すくなくともpikarrrさんに理解していただける形で説明することができませんでした。おそらく、pikarrrさんのような知識と理解力のある方に理解していただけるように説明することができなければ、他の多くの人にはよけい理解していただくことは難しいのと思うので、真摯に受け止め、より効率的な言葉の配列を模索したいと思います。

pikarrrさんが述べていらっしゃる諸点について細かく書いていくと不躾に長くなることはわかりきっているので、覚え書き程度に箇条書きで書いていくことにします。

・早産

スティグレールは人間の条件を早産に加え手の解放というものも考慮し、早産がもたらす欠如を手が埋めていく、と考えます。そこに生まれるのが技術的客体であり、その技術的客体という場が「他者のまなざし」を可能とする条件をなすとされます。この意味でスティグレールは、技術的客体を「鏡」と呼びます。スティグレールは鏡さらには鏡像段階は、技術的客体という物質的痕跡なくしては不可能であると考えているという点で、ラカンとは別の道を歩み始めているように思えます。

クリプキ

クリプキヴィトゲンシュタイン解釈は、ある部分では正当であると思いますが、ヴィトゲンシュタイン解釈としては端的に間違っていると思います。その点についてはヘンリー・ステーテンの『ヴィトゲンシュタインデリダ』がわかりやすいです)。『ヴィトゲンシュタインパラドックス』でなされている規則を集団の同意によって根拠づけることと、『名指しと必然性』でなされている固有名を「最初の命名儀式」によって根拠づけることとは論理的同一性をもっており、どちらもスティグレールデリダ以前にラカンの理論との背馳します。第三者の審級は存在するのではなく信憑されるだけであるにも関わらず、クリプキはそれを「集団の同意」「最初の命名儀式」という風に実体化してしまうからです。これはマルクスにおける労働や金に当たりますね。

しかし、マルクスにおける労働や金の地位は両義的なものです。通俗的マルクス解釈はそれらを実体化して理解してきましたし、またそれに歩調を合わせて通俗的マルクス批判も労働価値説を批判したりします。中野昌宏さんという人が『貨幣と精神』という本で論じていますが、マルクスにおける労働はラカン的な意味で事後的に生み出されるものであるわけです。別の言葉でいえば、労働や金は「他者」の欲望を体現するフェティッシュであるにすぎません。これは、デリダスティグレール以前に、ラカンの議論に即してのことです。

デリダ

僕の理解では、pikarrrさんが念頭に置かれていると思われるデリダの身ぶりは「他者」への信憑を宙吊りにしようとしているのではなく、その信憑の実体化を批判するとともに、その信憑の成立の可能性の条件を遂行的に浮き彫りに出そうとしているのだと思います。そしていわゆる「後期」「メシアニズム」は、まさに「他者」そのものへの信憑に動機づけられていて、「他者」への信憑を宙吊りにすることは問題とはなっていないように思われます。

僕のまとめでは、「前期」「中期」が信憑の可能性の条件を明るみに出そうとするものであり、後期は信憑そのものの身ぶりを展開していこうとするものである、ということになります。信憑の実体化への批判がそのまま信憑そのものの批判であると勘違いされてしまうという点がここでは問題であると思います。デリダは信憑の実体化を批判しても、信憑そのものを批判することはありません。この前者と後者の差異が大事だと僕は思っています。

・反復と一回性

これについては、アドホックな説明ではたぶん無理なので、また別のルートを考えます。

・身体とアフォーダンス

知覚そのものが訓練を通して生み出されている、というギブソンの発想には賛成しますが、基本的には僕はアフォーダンス仮説には問題があると思っています。それは奇しくもpikarrrさんがおっしゃっているように、そこには技術の問題が入ってこないからです。

ギブソンフッサール現象学から影響を受けた人ですが、その点においてもメルロ=ポンティと凄く通じるところがあると僕は思っています。メルロ=ポンティは繰り返し技術の問題にも触れていますが、最終体には「身体そのもの」という裏返されたロゴスへと帰っていってしまいます。

人間の身体が関係をとりむすび環境とは、pikarrrさんがおっしゃっているように技術によって改変された環境です。そのことに加えて、みずからが手を加え、また手を加えつづけていくであろう環境との関係性において、人間は動物には存在しなかった次数での反省性/再帰性を獲得する、ということも付け加える必要があると思います。

その反省性の場が、非遺伝子的な不確定性の場であり、欲望が可能となるのもそこにおいてであると思います。しかし、この辺の議論の道筋もおそらく体系的な記述が必要になる領域であると思われます。

・ブログ記事

自分自身の議論を反省的に振り返るいい機会になりますので、ぜひお願い致します。pikarrrさんとのやりとりで、いままで曖昧なところのあった部分がクリアになったり、また自分のもっていなかった視点を教えられたりととても勉強になりました。今さらながらですが、ありがとうございます。

id:pikarrr
なにかボクの都合の良い展開になっているようで恐縮です。ヴィトゲンシュタインパラドックスは、ラカン派ですので、クリプキよりも、さらにデリダよりも、大澤真幸ジジェクの展開を指示しています。 中野昌宏「貨幣と精神」ASIN:4888489785)はボクも読みました。最後は尻つぼみですが、わかりやすくて勉強になる本です。

ボクはラカンは近代以降、認識論、その後の言語論などの哲学一つの臨界だと考えています。よくラカンは様々な思想の継ぎ接ぎだと言われます。このようなアクロバティックなことは可能であったのは、ラカンが哲学家ではなかったからではないでしょうか。精神分析家という部外者であるから、自由度があったということです。

だからいかにラカンを超えるかというのは、現代においても哲学の課題です。その切り口を見いだしたのがデリダではないかと考えています。ラカンの問題は認識論であるということです。現実界(外部)と象徴界(内部)に切り立った断絶が存在します。この間をつなぐものとしてデリダが提示したのがエクリチュールという物質性です。voleurknknさんがいったスティグレールは鏡さらには鏡像段階は、技術的客体という物質的痕跡なくしては不可能であると考えているという点で、ラカンとは別の道を歩み始めているように思えます。」というのは、この議論に繋がるのではないでしょうか。

ボクは、「なぜネットはこれほど短期間で増殖しえたのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061208で、ラカンが晩年に突然提出した、第四の輪「サントーム(症候)」現実界(外部)と象徴界(内部)を繋ぐ技術的な領域を思考したのではないかと、言いました。そしてさらに、ボクは、アガンベンから転用し、外部と内部の間を技術的な領域を「グレイゾーン」と呼びました。

そしてデリダの弟子で技術論を展開しているスティグレールに注目していたのですが、「技術と時間」の翻訳本がないために指をくわえていたところに、ボクがこんなことを考えられれば思っていたことが、voleurknknさんによって具体的に目の前に現れたので、ついつい興奮してしまいました。 よく考えると、ブログを読ませていただきましたが、voleurknknさんの全体像を理解したわけでもなく、性急に押しつけがましく、いろいろと好き勝手言ってしまっています。申し訳なく思います。ただvoleurknknさんが書いていることはとてもおもしろく、ボクもこのようなことが書ければと思い、ついつい興奮してしまっていると、いうことはわかっていただければと思います。

さらに困ったことに、インスパイアされて、まだ色々考えています。この際だから、一区切りまで、言わせてください。

voleurknknさんは、1回性は「信憑」であり、認識論的なものであるといいました。しかし存在論的な1回性はないでしょうか。たとえば生命記号論では次のように書かれています。

自然界と人間の関係は、通常に思われているよりも、もっと近いものとなる。生物学者は、通常人々を自然に近づけようとする。ところが私はそれとは反対の戦略をとる。自然と人間の方に近づけようとする戦略を採用するつもりである。

「生命記号論 ジェスパー ホフマイヤー (ASIN:4791762177)  P50
すなわち生命は人間のように世界を構築(習慣化)するということでしょう。しかし人間と生命でなき、鉱物の世界に、反復は存在するのか。科学によって発見された法則は、認識論か、存在論か。アインシュタイン「我々が見ていないとき、空にかかる月は存在しないのか?」を思い起こさせます。

そこまで考えなくとも、ボクは存在論的な1回性について、以下のように書きました。

すべての(自然)現象は厳密には、1回限りで繰り返しなどできない。物体Aと物体Bの衝突だって、厳密には同じ結果は起こらない。物体Aと物体Bが衝突するときの回りの環境は厳密に同じであることはありえない。そして回りの環境が異なれば、繰り返し(検証)でなく、異なる結果ということ。力学はこの環境の差が小さいとして近似的な解を与えているだけだ。

なぜ「歴史」は科学的に記述されないのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061217
このような存在論的1回性を考えると、以下のように考えられます。

外部存在論的1回性=カントの「物そのもの」現実界

グレイゾーン存在論的痕跡(=反復)=アフォーダンス=痕跡とプログラムの代補の運動

内部=認識論的痕跡(他者の痕跡)=信憑=象徴界想像界
生物はグレイゾーンの世界で生きています。グレイゾーンにおいて、存在論的1回性を反復へと回収することで、環境をアフォード(痕跡を残し)生きています。グレイゾーンは、スティグレールが、「遺伝的記憶の層である系統発生+生物個体の神経的記憶の層である後成系統発生」という領域です。

人間は内部で生きています。グレイゾーンにおいては、存在論的1回性を反復へと回収することで、環境をアフォード(痕跡を残し)生きていますが、それはいつも認識論的な痕跡(他者の痕跡)として、現前化します。他者の痕跡は、認識論的1回性と存在論的1回性の混同を産み、外部(現実界)へ向かう過剰な欲望(死への欲動)を生み出します。そして環境とのアフォードを超えて、終わりなき技術開発によって、環境を破壊します。

ここまでで一段落しました。この当たりにくると、暴走の域に達していますので、流してもらって結構です。こちらこそ押しつけがましい発言に丁寧に返答いただきありがとうございます。今後の展開に期待しています。

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