なぜラカンはヴィトゲンシュタインで満足しなかったのか 「フラット化」と欲望 その1

pikarrr2007-01-18

ヴィトゲンシュタイン「他者」


柄谷は「探求Ⅰ」(ASIN:4061590154)の中で、後期ヴィトゲンシュタイン「教える−学ぶ」関係と対比して、多くの思想は独我論であるといった。「教える−学ぶ」関係とは外国人、子供などであり、共同体(言語ゲーム)の外部の存在である彼らには、通常当たり前とされる内部の規則は通用せず、独我論を破る「命がけの飛躍」としての「他者」が存在すると言った。

私は、自己対話、あるいは自分と同じ規則を共有する者との対話を、対話とはよばないことにする。対話は、言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして、他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者との関係は非対称的である。「教える」立場に立つということは、いいかえれば、他者を、あるいは他者の他者性を前提することである。

哲学は「内省」からはじまる。ということは、自己対話からはじまるということである。それは他者が自分と同質であることを前提することだ。・・・それが同一の言語ゲームの内部ではじまるというのと同義である。私にいえることは万人にいえると考えるような考え方こそが、独我論なのである。P11-12


「探求Ⅰ」 柄谷行人 (ASIN:4061590154)

ヴィトゲンシュタインが後期において、独我論を越えることを思考し続ける。それが言語ゲーム論であり、また「私的言語は存在しない」というである。その意味で、柄谷がいうように、ヴィトゲンシュタインが後期に発見したものは「他者」だろう。そこにあるのは、発話は「他者」に向けられるという端的な事実である。




「他者」とは何者か


共同体(言語ゲーム)の外部ということでは、精神分析「他者」の世界だろう。精神分析「電波な」言葉の世界であり、まさに「命がけの飛躍」に橋をかけることを試みる。そして精神分析は他者とはなにかを思考しつづける。たとえばラカンは他者の思想といわれ、小文字の他者(想像界の他者)、大文字の他者象徴界の他者)、決して到達しない他者(現実界の他者)が指摘されている。

ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論で見いだされた他者とは、これらの他者の場である。ヴィトゲンシュタインが上げる「教える−学ぶ」関係の外国人、子供などの他者は、決して到達しない他者(現実界の他者)である。そして学び終えたときに、彼らは言語ゲーム内部へ帰属することで、大文字の他者(象徴的な他者)に支えられた小文字の他者(想像的な他者)へと変容するのである。

ヴィトゲンシュタインがいう「私的言語は存在しない」というのは、「痛い!」という発話でさえ「規則に従った」言語行為であるということだ。ここでは、「痛い!」と言語行為が向かう他者(大文字の他者、あるいは小文字の他者)である。それとともに、「命がけの飛躍」としての決して到達しない他者(現実界の他者)が逆説的に現れる。




フロイトを迂回したヴィトゲンシュタイン


このようなヴィトゲンシュタイとラカンの近接は、もちろんヴィトゲンシュタイン構造主義的であるということではなく、ヴィトゲンシュタインフロイトから影響を受けたとというように、ラカンヴィトゲンシュタインから多大な影響を受けたということだろう。

ソシュールがランガージュをラングとパロールに分けることで、複雑なパロールはさけ、ラングを差異の体系として分析しえた。ラカンソシュールの影響を受け、構造主義と言われるが、精神分析医であるために、パロールこそが分析対象である。このパロール(日常言語)分析において重視されたのが、フロイトを迂回したヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論だったのではなかっただろうか。

ラカンがたどった過程は、ヴィトゲンシュタインの逆流である。精神分析はまず、精神分析患者という決して到達しない他者(現実界の他者)から始まる。そして彼らをいかに治療するか。すなわち彼らを導く「正しさ」とはなにかが、問題になる。そしてその「正しさ」としてヴィトゲンシュタイン言語ゲーム(規則に従う)を見いだしたのである。

決して到達しない他者(現実界の他者)→小文字の他者(想像界の他者)→言語ゲーム(規則に従う)=大文字の他者象徴界の他者)

ヴィトゲンシュタイン言語ゲームをコミュニケーションが成立する基底と考えように、治療において目指すべきは「正しさ」とは、言語ゲーム(規則に従う)である。それをラカン象徴界と呼んだのである。




言語ゲームへの参入という去勢


ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム「規則に従う」ことであるという。これは言語の「規則」を学び、それに従って発言するということではなく、「規則」より先に「規則に従う」実践がおこなわれることがコミュニケーションであるということだ。

「規則に従う」では、発話は、言葉のコンスタティブ(事実確認的)な意味の伝達とともに、必ず「その場面に適切・不適切で判断されるような」パフォーマティブ(言語行為的)な意味をもつ。他者との関係において行為を指示する/されるような意味をもつ。そして言語ゲームという一つの内部において、社交的な言葉がつぐまれ、社会が構成されていくのだ。

このような「規則に従う」ことの特徴は、「規則に従う」ことがどのような規則によってなりたっているのではなく、ただ「規則に従う」(禁止)を指示するのである。それは、まさに精神分析において、人は幼児期の母と子という想像的同一性の世界から、言語ゲームという「規則に従う」ことを学ぶことで正しく社会(象徴界)へ参入すること、「去勢」される、と考えられる。




言語ゲームの正しさとはなにか」


しかし精神分析という強烈な「他者」の場に棲むラカンは、ここに留まることを許されなかった。そしてラカンは、言語ゲームの正しさとはなにか」と問うのである。ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム内の「規則」「自明性」「確実性」を、経験の反復により「硬化」することに見いだす。みなが反復することでそこに慣習としての確かな「規則」が生まれると考えた。

「具体的判断が繰り返しなされる中で、誰がやってもほとんどいつも同じ結果になる判断は、いわが次第に化石のごとく硬くなり、そのうちに完全に固定化される。」P353


ヴィトゲンシュタインはこう考えた」 鬼界彰夫 (ASIN:4061496751

それに対して、ラカンの考えは、人々が大文字の他者を欲望するからである。簡単にいえば、「みんな」と同じでありたい、共同体の成員でありたいという欲望による、「規則に従う」ことが内面化され、慣習化されるのである。そしてラカン言語ゲーム(規則に従う)という「自明性」「確実性」の不完全性を見いだす。大文字の他者も欲望する」ということでラカンが表現したのは、たとえば言語ゲーム(共同体の成員)はブームに流されるような曖昧なものでもあるということだ。

それ故に、精神分析という患者を基底(正しさ)へと導く使命をもつラカンは、ここに留まることはできなかったのである。




精神分析の倫理(正しさ)


そしてラカンが最後に向かったのが、現実界=決して到達しない他者(現実界の他者)への回帰であった。「己の欲望に譲歩するな」という精神分析の倫理(正しさ)は、言語ゲームに流されず、決して到達しないとしても、自らが本当に望むものを求め続けろということだ。

ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム(規則に従う)の彼岸を「狂気」といったように、それはまさに普通の人から見れば「狂気」の地点であるが、それが本当に自らが望むものならそれを欲望し続けろ。それが精神分析の倫理として、見いだした「正しさ」であり、基底である。

それは柄谷が「探求Ⅰ」で指摘したヴィトゲンシュタインが見いだし「命がけの飛躍」でもある。そしてラカンはそれを成功するものとは考えていないのだが。
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