なぜ岩崎恭子は「今まで生きてきたなかで一番幸せです」と言ったのか。
「今まで生きてきたなかで一番幸せです」
十四才の岩崎恭子がバルセロナオリンピックの平泳ぎで金メダルを獲得したとき、「今まで生きてきたなかで一番幸せです」と発言したことは有名である。この発言の滑稽さはオリンピックで金メダルとることは確かに人生でも希有な体験だろうが、たいした人生経験がない14才の少女がつかう言葉ではないだろう、ということだ。
想像するに、彼女はこのような場面でこの発言が使われていたのはどこかで見ていて、思わず、喜びを表現する言葉としてでてきてしまったのだろう。子供の発言にはこのようなことが多々ある。「そんな発言どこでおぼえたんだ」というような、大人びた、そしてとってつけたような発言をする。
ここではヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論が浮き彫りになる。言語ゲームは「規則に従う」ことであるという。これは言語の「規則」を学び、それに従って発言するということではなく、「規則」より先に「規則に従う」実践がおこなわれることがコミュニケーションであるということだ。人のコミュニケーションは言語の規則を学ぶよりも、とにかく言葉を使ってみること(言語行為)で成り立つという言語ゲームである。
そして岩崎恭子は、どこかで見た場面を思い出し、ヴィトゲンシュタインがいうように「規則に従って」みたということだろう。
岩崎恭子はだれに言わされたのか
さらにここにある滑稽さは、彼女がまるで腹話術の人形のようにセリフを言わされていることにある。前もって大人が発言内容を教えていたならこのような滑稽な発言はしないだろう。ならば誰に言わされたのか?
精神分析は患者が無意識に抑圧された「真実」を言葉によって、明るみに出し、「正しく」位置づけることを目的とする。そのための夢分析、自由連関法などのように、ただ患者にとりとめもなく語らせ、そこから潜在的な「真実」を探り出そうとする。しかしこれは精神分析治療だけの問題ではなく、フロイトは人々の夢の言葉、言い間違いや機知などにこのような抑圧された言葉を見いだした。
このような「言語論」をさらに発展させたのがラカンである。ラカンはこのような状況を、「シニフィアンの優位」と考えた。シニフィエ(伝えたい意味)をシニフィアン(記号表現)として発言するのではなく、人はただ言葉(シニフィアン)を紡いでいく。本当に伝えたいこと(シニフィエ)は無意識へ抑圧され、本人でさえも捉えられていない。
このような意味で、「今まで生きてきた中で、いちばんしあわせです」はまさに「シニフィアンの連鎖」であり、彼女は「無意識」によって言わされたということだろう。
「言語ゲーム」への参入という去勢
精神分析において、「真実」を無意識に抑圧することは、病的なものではなく、大人になること(去勢)という言語獲得の生成場面でもある。人は幼児期の母と子という想像的同一性の世界から、言語(父の名)を獲得することで、社会(象徴界)へ参入するのである。
だからラカンの「無意識はランガージュ(言語)のように構造化されている」は、単に構造主義(ラング)的な言語獲得ということではなく、禁止の言葉の獲得(去勢)である。そして禁止の言葉とは、パフォーマティブ(言語行為的)な言葉であり、ヴィトゲンシュタインの「規則に従う」にとても近接している。
「規則に従う」では、発話は、言葉のコンスタティブ(事実確認的)な意味の伝達とともに、必ず「その場面に適切・不適切で判断されるような」パフォーマティブ(言語行為的)な意味をもつ。他者との関係において行為を指示する/されるような意味をもつ。
そしてこのような「規則に従う」ことの特徴は、「規則に従う」ことがどのような規則によってなりたっているのではなく、ただ「規則に従う」(禁止)を指示するのである。ラカンが象徴界を「大文字の他者」と呼ぶのは、なぜそのような規則があるのか、禁止されるのかには意味がなく、ただ「大文字の他者」(超越論的他者)の名としてあるからだ。
このようにして、言語ゲームという一つの内部において、「大文字の他者」の名として、社交的な言葉がつぐまれ、社会が構成されていくのだ。
「岩崎恭子」のもの悲しさ
ヴィトゲンシュタインが言語ゲームによってコミュニケーションの成立を信じているのに対して、ラカンにおいては、「真実」からズレたシニフィアンを交わし会うことで、コミュニケーションが成立しているようにふるまうだけだということである。ラカンが「真実」を信じていたのは、ラカンは患者を治すという精神分析医だっただからだろう。「真実はないことである」といってもである。
岩崎恭子が「今まで生きてきた中で、いちばんしあわせです」というときのいじらしさは、一躍社会的に注目される中で、懸命に大人として振るまおうとすること、そして社会の一員であれという抑圧、だろう。そしてそれとともに露呈したのは、コミュニケーションが成立しているようにふるまうことしかできないボクたちの日常のもの悲しさであるのかもしれない。
「キミはまだそんなふるまいは必要ないよ。そのうちにボクたちのようにいやがおうにでもふるまうしかなくなるんだから・・・」
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