なぜ人はポスト・ヒューマンの夢を見るのか

pikarrr2007-01-26

特異点(Singularity)」


NHK-BS「未来への提言」の発明家レイ・カーツワイルhttp://www.nhk-jn.co.jp/002bangumi/topics/2006/052/052.htm)はおもしろかった。情報技術が毎年2倍ずつ成長していることをベースに、2045年には人類全体の知能の10億倍の能力を持った人工知能が登場し、人間が制御できなくなる可能性のある未知の領域=特異点(Singularity)」に入ると言います。ボクはまだ読んでいませんが、最近「ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき」(ASIN:4140811676) が刊行されています。

技術的特異点


彼らは科学技術の進展の速度が人類の生物学的限界を超えて意識を解放することで加速されると予言した。この意識の解放は人間の脳を直接コンピュータネットワークに接続することで計算能力を高めることだけで実現するのではない。それ以上にポストヒューマンやAIの形成する文化が現在の人類には理解できないものへと加速して変貌していくのである。

レイ・カーツワイルは、歴史を研究することで技術的進歩が指数関数的成長のパターンにしたがっていると結論付け、特異点が差し迫っているという信念を正当化している。彼はこの結論を「加速するリターンの法則」(The Law of Accelerating Returns)と呼ぶ。彼は集積回路の複雑さの成長が指数関数的であることを示すムーアの法則を一般化し、集積回路が生まれる遥か以前の技術も同じ法則にしたがっているとした。

彼は、ある技術が限界に近づくと、新たな技術が代替するように生まれてくると言う。彼はパラダイムシフトがますます一般化し、「技術進歩が加速されて重大なものとなり、人類の歴史に断裂を引き起こす」と予測する(カーツワイル、2001年)。カーツワイルは特異点が21世紀末までに起きると信じており、その時期を2045年としている(カーツワイル、2005年)。

Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%9A%84%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9




未来学的予測


トフラーやドラッカーなどの未来学的な分析はボクも好きだし、ある正当性があると思います。彼らの予測を可能にいているのが、技術進歩史観という「一次元性」です。そこでは、未来予測を現状の延長線上で描くことができます。技術の1次元的な変化の確かさをベースに社会変化が予測されます。

レイ・カーツワイルが注目される理由の一つが、彼が未来予言者として、「90年代初めの軍事戦略の大きな変化(湾岸戦争で実証)、90年代半ばの世界中を結ぶネットワークの誕生(インターネットで実証)、98年にコンピューターがチェスの世界チャンピオンを負かす(1年の誤差で実現)など、コンピューター技術の開く未来予測を次々と的中させ」たことにあります。これらの未来予測も、同様に技術の「一次元性」を元にしています。

たしかに情報技術が毎年2倍ずつ成長していることをベースにする。これは10年で千倍、25年で十億倍と指数的に増加し、「人類の歴史に断裂を引き起こす」という言説には、目眩がするほどにに引きつけられます。それは、最近では、ウェブ進化論ASIN:4480062858)で語らえたGoogleが世界の知を再構築することで、新たに世界政府になるだろう」に近い魅力をもつでしょう。




流行(ポピュラリティ)としての思想


たとえば近代はデカルトに始まると言われるわけです。心身二元論、機械論という主体像です。考え方として、あのころはまだ人々の知識が浅くて、人間を機械として見たと考えるのは間違いで、人間、生命は機械ではないというのは、ちゃんとあったわけです。しかし機械論は奇妙に人気(ポピュラリティ)を獲得する。

さらに、なぜマルクス主義はポピュラリティを獲得したのか。なぜ構造主義、次にポスト構造主義はポピュラリティを獲得したのか。たとえばポスト構造主義のような考えはずっと昔からあるわけです。でも20世紀にポピュラリティを獲得したのはなぜか。思想とは無数の考えの中からの人々によるチョイスであり、流行(ポピュラリティ)です。




技術進歩の一次元性


近代以前は、西洋では終末思想の方が一般的で、進歩史観というのは、ほとんどなかった。近代以降の思想はどこか進歩史観があると思うんです。真実に近づいている感じがある。「素朴な形而上学に真実はない」という真実です。

近代以降、歴史は生まれ、主体は生まれ、このようなポピュラリティは1次元化している。このような1次元の変化は技術進歩にしか見いだせない。技術進歩が人の進歩史観を支えている。だからポプラリティの変化は技術という一次的な変化に従っているだろうと。

思想はその時代の人々のポピュラリティ(流行り)に依存する。ポピュラリティはその時代の人のリアリティ(実感)に関係する。リアリティはその時代の技術(テクノロジー)に関係する。デカルトの時代、その後、機械ブームがあったんです。世界が機械的である、様々なものが数量化されることが人々にとって興奮だった。たとえば構造主義ポスト構造主義のブームには、機械論の限界、閉塞感から、複雑なものへのあこがれがあったんですね。コンピューターへのあこがれのような。




技術進歩は人を熱狂させる


技術がなぜ1次元的な進歩(時間)を持ち得るのかは、記憶が外部化しえるからです。ドーキンス的にミームということですが、さらに近代技術の成功とは、外部化された記憶の正確さ、伝達速度の速さの向上、すなわち徹底した数量化です。

それに対して技術を使う人間(の記憶)の寿命は短く、本質的に変わりません。外部化された記憶としての技術と、人間の記憶としての内部を考える必要があるだろう、ということです。すなわち心身二元論ということです。

そこから技術進歩と人間進化と短絡する機械論が語られます。ハイデガーの技術論では、現象学的にこの心身をあまりに直結的に語りすぎる、たとえば最近ではヴィリリオなどに特徴的ですが、ヴァーチャルリアリティが新しい人間を生み出すような表現が見られますが、ものすごく違和感があります。

ボクが技術において重視するのは、「外部化」としてです。そして人間へ与える影響は、人間身体への進化的影響ではなく、人間が技術進歩へ熱狂するということ、神性化するということです。現代においては、新しい技術は「神」なのです。その意味で、人間はなにも変わらないのです。宗教にかわり、Googleに熱狂するということです。そして熱狂とは、ポピュラリティなのです。

デカルトの示した機械論のヴィジョンに人々は熱狂する。世界は機械だと信仰する。ポストモンダンの創発性のヴィジョンに人々は熱狂する。世界は創発性だと信仰する。これらは、技術進歩への熱狂なのです。このような神格化、熱狂において、人間は太古から本質的に変わらっていない。




技術進歩という狂気


情報化社会で、「外部化」が進み、管理社会に向かっていることは、もはや否定できないのではないでしょうか。しかし進歩が目指すのは、完全に管理され、予測可能性が向上し、永遠に生存を確保されることです。ニーチェのいう永久回帰です。これが近代的主体の見る究極の夢なのです。

しかしここまでくると、狂気ですね。すなわち管理社会とは狂気の裏返しであり、身体の管理と、身体管理を目指す心という二元論。心身二元論的パラドクスです。「外部化」が進むところでは、たえず一方で外部化されない心を考えないといけません。

科学的ディスクール(発言)は、帰納法、要素還元主義に代表されますが、伝達の正確さ、速さです。それが検証を容易にし、迅速にプラグマティックに世界の変容を可能にします。どれだけ実用性があるかが「正しさ」です。

そして科学的ディスクール(発言)とは享楽です。世界を変えることができる魔法としての科学技術に人々は、享楽するのです。外部化とは世界が細分化されることです。そして人の身体と接合され、高速の足(車)、高速の脳(コンピュータ)破壊的な力(爆弾)と手に入れ、世界を管理し、征服することに享楽するのです。

このことが人間は本質的に変わらないことを示します。実は、人はいまだに生存することの綱渡りを生きて、恐怖している。そして近代以降の宗教(科学)は恐怖の克服に、進歩史観を使う。進歩している、そしていつか恐怖は克服されると説かれる。




回帰し続ける熱狂


たとえばムーアの法則がボクたちをいかようにかえたか、考えたときにどうでしょうか。ボクたちはバソコンに熱狂し、ウインドウズに熱狂しましたが、いまだにパソコンは立ち上がりがおそくてとろいと嘆いています。それは、CPUの向上とともに無駄にソフトも重くなっているからだと言われます。しかしこのような重いソフトへの不平が隠蔽しているのが、そもそもCPUの向上には重いソフトを無駄に動かすしか使い道がないのではないということではないでしょうか。ムーアの法則の無駄さを隠蔽することで、新機種を買うことの無意味さを隠蔽しているということです。「CPUの向上はなにに使えるのか」は、たとえば最新ゲーム機のPS3にもいえるでしょう。

レイ・カーツワイル特異点(Singularity)」は、技術の一次元的進歩と進化との安易な短絡であり、「技術進歩が加速されて重大なものとなり、人類の歴史に断裂を引き起こす」と一次元の延長線上から逸脱して語ろうとするとき、すなわち特異点(Singularity)」「ポスト−ヒューマン」は、パターンをかえて回帰し続ける熱狂(神性化)の典型例と言えるのではないでしょうか。

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