なぜ「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」は心身二元論を要請するのか
「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」という「断絶」
後期ヴィトゲンシュタインでは、「なぜ曖昧な日常会話が成立しているのか」と問われる。ヴィトゲンシュタインは、そこにある集団内で共有化された基底を「言語ゲーム」と呼んだ。「言語ゲーム」は人々に共有された規則が存在し、「言語ゲーム」が成立するのではなく、「規則に従う」という実践の反復によって、「言語ゲーム」は行われている。規則は「言語ゲーム」というある集団内の反復の中で事後的に見いだされていくものでしかないということだ。
世界の普遍的な体系と考えられていた数学でさえも、ある集団内の「言語ゲーム」であり、書き換えられていく不完全なものでしかないことを示した。
「いかにして私は規則に従うことができるのか」 もしこれが因果関係に関する問いでないなら、それは私が現にこのように規則に従っていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くした時、私は固い岩盤に突き当たってしまい、私の鋤は跳ね返される。そのとき私はこう言いたくなる。「ただ私はこのようにやっているだけなのだ。」
「規則に従っているとき、私は選択をしない。私は規則に盲目的に従っているのだ。」
この「規則に従う」とはなにか。規則は事後的でなく、確かな道(規則)がない中で盲目的に「規則に従」っている。クリプキはこれを「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」(ASIN:4782800177)といい、柄谷は「命がけの飛躍」といった。人はいかにこの「断絶」を飛躍するのか、ということだ。
超越論的に「規則に従う」
クリプキはこれを「共同体」に求める。すなわち「規則に従う」ときに、それを他者が承認することで、盲目の飛躍は可能になる。しかしロビンソークルーソーなどの孤立した個人はどうなるのか。それが「共同体説」への反論である。このためにこの他者は「超越論的な他者」として現れてくる。すなわちラカンがいう「無意識」(大文字の他者)である。
このように精神分析につなげると、ヴィトゲンシュタインがあげた「教える−学ぶ」という「言語ゲーム」への参入は、精神分析的な「去勢」に相当することがわかる。人は幼児期の母子の想像的な関係から、大人になることで父の介入によって社会性を身につけていく。すなわち無意識として規範(大文字の他者)が内面化されていく。
ロビンソークルーソーなどの孤立した個人であっても、誰もいないからといって「狂気」に走るわけではなく、かつて「去勢」されていれば、「無意識」(大文字の他者)によって「規則に従い」規範的にふるまうだろう、ということだ。
ラカンの欲望論
しかしラカンの欲望論においては、大文字の他者Aは、斜線を引かれた大文字の他者A/として、その不完全性が強調された。そしてこの不完全性(断絶)=象徴界(大文字の他者)に開いた穴を現実界と呼んだ。そして現実界は(認識)不可能な領域であり、人はその穴(断絶)を充実のイメージとしての「幻想」を見るだけである、ということだ。
大文字の他者においても、この「断絶」の飛躍を完全に承認することはできない。「断絶」は決してふさがれることがなく、「言語ゲーム」の成立は、「断絶」を隠蔽し、成立しているようにふるまうことによって成り立っている。そして「飛躍」は決して成功しない故に充実のイメージとしての「幻想」が欲望され続ける。
すなわち「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」の不可能性と、それこそが逆説的に「言語ゲーム」の成立を支えているというジジェクのいうシニシズムである。
後期ヴィトゲンシュタインの言語論的な影響として、言語行為論がある。発話はコンスタティブ(事実確認的)であるとともに、文脈(コンテクスト)に依存し、言語を使うパフォーマティブ(行為逐次的)に分ける。これは言語表現とそれを用いる使用者や文脈(コンテクスト)との関係を研究する語用論に繋がる。
しかし言語行為論が文脈(コンテクスト)を明確にあるものとして扱い、コンスタティブな発話とパフォーマティブ発話を分類するとき、「断絶」は隠蔽されている。デリダはどのような発話もコンスタティブであるか、パフォーマティブであるか、事前にコンテクスト決定することはできないことを指摘し、再び「断絶」を開いた。
これはデリダのエクリチュール論に繋がるだろう。たとえばデリダは「署名(サイン)」することは、署名する=本人確認が示される。しかし毎回微妙に違う署名がなぜ自己同一性をしめすことができのかと問う。これはまさに「言語ゲーム」である。
この本人確認というのは、確かな生の現前性であるが、それが事後的な転倒でしかない。署名は署名するという「規則に従う」反復によって、「署名する−本人確認」という規則が事後的に生まれている。反復は「断絶」によって短絡されるために、生の現前性という自己同一性は同一の反復はない「差延」である。
さらに「署名」の奇妙なことは、印刷のような署名の同一性ではなく、署名は毎回微妙に違うということ、それはまた偽造可能性によって、生の現前性が保証されているということだ。反復され、そこに誤配可能性(差延)があることが、事後的な充実したイメージとして超越論的(大文字の他者)に現前化される。これは、ラカンの不可能性が「言語ゲーム」の成立を支えているというシニシズムに近接する。
「決して現前化しなかった過去」の反復
ヴィトゲンシュタインの「規則に従う」という実践において、同一の反復は不可能だろうし、失敗することもあるだろう。デリダにおいては、まさにこの非同一な反復(差延)こそが、規則の形而上学的な「確かさ」を保証されている、ということである。
ただデリダの言う反復は、実際に行われてものではない。デリダは差延を「決して現前化しなかった過去」という。たとえば極端にいえば、「署名」は1回だけ行われた行為(「規則に従う」)であっても良いのである。過去に署名された反復だけでなく、反復されるだろう可能性によって、「確かさ」は擬装されえるのだ。
自然主義としての「規則に従う」
ラカンの欲望論とデリダの「エクリチュール」論は、「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」への超越論的な不可能性としての解答となっている。しかしヴィトゲンシュタインが、「規則に従う」において「実践」を強調し、ときに「自然史」と呼ぶとき、自然主義に近接する。ここではまさに「実際に行われた過去」の反復が語られるだろう。
これをもっとも純粋に継承したのが、ギルバート・ライルであり、さらにはマイケル・ポランニーだろう。ポランニーが「暗黙知の次元」(ASIN:4480088164)で指摘している「暗黙知」とは、言語的表現ができないような身体的な知である。たとえば自転車に乗るというのは、まさに「規則に従い」実践的に習得していく。あるいは人はどのように歩いているのか。人の顔のどのように区別しているのかなど、決して言語では表現できない「暗黙知」があるということである。
自然主義において、「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」という言語的な「断絶」は身体的な知によって乗りこえられるということである。これは人間は動物のように遺伝子にプログラムされた完全なコミュニケーションは不可能であっても、究極的には人間という同じ種において、言語を越えて繋がることができるだろう期待がある。
ヴィトゲンシュタインのいう「実践的反復」の自然主義的な読みは、「生存のため」に「身体という物質の自然との確実な関係性」と1度ではダメでも、「繰り返す」ことで、少しでも動物的な完全なコミュニケーションに近づくことができる、ということだ。
ベイトソンの学習論
さらにこのような自然主義は認知科学に繋がっていく。動物は精密な機械である。人が動物ならば、人間も機械である。その意味で、ベイトソンの学習論は、後期ヴィトゲンシュタイン、そして言語行為論から影響を受けた自然主義の系譜であり、そしてサイバネティクスという認知科学の前段に位置する。そしてベイトソンの学習論では、自然主義的に埋められて、もはや「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」の「断絶」は存在しない。
ゼロ学習・・・遺伝子、あるいは機械プログラム。インプットに対して同一反復にアウトプットを出力する。学習で習得するものではない。「断絶」は存在しない。
学習Ⅰ・・・条件反射のように、あるコンテクストの中で入力に対する出力が学習される。ただコンテクスト事態は学習されない。「暗黙知」はここに相当するだろう。「断絶」は身体的反射によって埋められる。
学習Ⅱ・・・コンテクストを学習することで、コンテクストの認識(状況判断)が可能になる。「言語ゲーム」はここに相当するだろう。「断絶」はコンテクストによって埋められる。
学習Ⅲ・・・コンテクストの差異を知り、コンテクストの操作を学習する。「断絶」はコンテクストのコンテクストによって埋められる。すなわち「断絶」そのものを操作する
超越論的「言語ゲーム」システム
ベイトソンの学習論では、「断絶」は乗りこえられている。しかしラカンは「断絶」を開く。ラカンが「性関係は存在しない」というのは、ゼロ学習は人間には不可能な領域であるということだ。人は動物のように遺伝子プログラムによって生殖を行うことはできない。人は「言語ゲーム」(学習Ⅱ)において学習するしかないが、事前にコンテクストという「断絶」を埋めるものは存在しない。
たとえば人間において、性関係(生殖行為)はセックスとして学習するものであり、それはもはや生殖のための行われるものではない。さらに最近の日本人のセックスがAVのようにパターン化しているといわれるように、「言語ゲーム」、地域的な文化として学ぶしかないが、そこに正解はないのであり、全てが倒錯的(フェティシズム)なのである。
このような不可能性を考慮して、ベイトソンの学習論を参照に超越論的に「言語ゲーム」システムを示すと以下のように考えられる。
超越論的「言語ゲーム」システム
①言語ゲーム(学習Ⅱ)・・・人はゼロ学習、学習Ⅰは不可能であり、コンテクストを読み込もうとする学習Ⅱからスタートする。しかしコンテクストは決定不可能であって、「断絶」が存在する。動物や機械のようには正確な行為はできないのである。すなわち「差延」が内在している。
②事後的な「規則」化(学習Ⅰ、ゼロ学習)・・・そのための差延の反復の中から、学習Ⅰ的なコンテクストと規則が見いだされる。さらには外部記憶化されることで、ゼロ学習となる。これが数学や科学法則、あるいは法であり、言語ゲームの構造となる。これはあくまで、根拠をもたない不完全なものであり、形而上学である。
③創造と破壊(学習Ⅲ)・・・学習Ⅱの反復の中で事後的に、コンテクストに再帰的になり、受動的なズラしとしての差延ではなく、能動的なズラとしての「脱構築」が行われる。これは、ニーチェも指摘しように「遊び」であり、創造である。このような「遊び」によって、言語ゲーム(学習Ⅱ)によってダイナミズムがうまれる。
しかしラカンの欲望論において、このような意図的な「命がけの飛躍」は享楽(フロイトの死の欲動)と言われる。すなわち創造とは(既存の安定の)破壊である。このような能動性としての享楽は「言語システム」そのものの動力であると考えられるが、その「破壊」が生産的的なものであるか、非生産的なものであるかは、事後的にしか決定できない。
科学技術という事後的な「規則」化
このような超越論的「言語ゲーム」システムは、外部を開拓しつつ、規則を書き換え新陳代謝することで安定した内部を維持するようなシステムである、考えることができる。
そしてそこには二面性を見いだすことができるだろう。一つは、①事後的な「規則」化を重視する面である。「言語ゲーム」は、「事後的な「規則」化」過程において、学習Ⅰ(さらにはゼロ学習)のようなコンスタティブな規則を外部記憶化し、蓄積し、新たに環境を書き換えている。それは、幸せか、善かの「道徳的(モラーリッシュ)」ではなく、「実用的(プラグマティッシュ)」であり、現に「進歩」し、人の生存率は向上しているという端的な事実に基づく。
近代以降、科学技術という「言語ゲーム」は、数量化され、外部記憶化され、より正確に高速に伝達され、情報交換され、検証され、利便性において淘汰され、先鋭化されて、蓄積されていった。これによって、世界中に広がるとともに、強固な構造物となっている。この科学技術の強固な構造物=「反復の壁」は、外部環境という不確実性を解体し、予測可能性なものして、人の安定した生存を支えている。
そしてこの強固な「反復の壁」の形成に、科学技術は自然主義の導入を目指す。学習Ⅰ(さらにはゼロ学習)のようなコンスタティブな規則は、言語よりもより確かな「暗黙知」という身体の次元によって補完されるだろう。ここに認知科学の「使命」がある。
創造と破壊
もう一つは③創造と破壊な面である。学習Ⅱ(言語ゲーム)に内在する差延、学習Ⅲの脱構築は創造であるとともに、破壊である。その不可能性故に、終わりなき欲望がある。人は分かりあえない故に、分かりあおうとして言語ゲームが成立しているように振るまう。
科学技術の発展は、単に安定した生存を求めるだけでなく、悲惨な戦争や環境問題などの「暴走」を生み出している。機械論は享楽を加速している。構築された「反復の壁」が過剰で煌びやかであるのは、それが享楽の「痕跡」であるからだ。
マルクスの機械論という欲望
このような享楽の次元を見いだしたのは、フロイトであるが、もう一人の先駆者がマルクスである。マルクスは、アダム・スミスの「神の見えざる手」という創発性によるバランスを根底にもつ機械論的古典経済学において、貨幣交換というものが西洋、近代という特殊な状況の「言語ゲーム」であることを示した。
それとともに世界はそもそも商品価値を持ち、世界を貨幣という数量化された価値へ還元することが「自然なこと」とする古典経済学に対して、貨幣という数量化に潜む神秘性を暴露した。貨幣交換過程が「命がけの飛躍」であり、価値は事後的に見いだされる。
これが商品、あるいは貨幣のフェティシズムという超越論性である。「なぜ人はお金がほしいのか」という貨幣へのフェティシズムは、経済発展が安定生存を可能にすることに還元できない欲望である。
しかしマルクスは自然主義者である。類的存在を人間のあり方の基本として夢見て、このような欲望論を資本主義の問題へと還元する。そのために新たな自然主義的機械論としての社会主義をめざす。しかし機械論と欲望論は、「言語ゲーム」システムに内在するものであり、機械論そのものに欲望は内在するのだ。
「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」を機械論的に基礎づけることは、科学技術の発展などの現代の実情に近いように思える。このような機械論的な科学技術は、実際に効果を上げて、ボクたちの信頼の基底となっている。ボクたちはもはやこのような科学技術の基底なく生きていくことはできない。しかし機械論的科学主義は強固すぎる。そのための地域的な偏向した「言語ゲーム」というパワー(暴力)ゲームに至る。
そして超越論は科学世界の限界の倫理的な地点において必要とされるだろう。超越論(欲望論)に基礎づけることは、世界を曖昧にしすぎ、相対主義的ななんでもありの倫理観の発散を生む可能性がある。しかしデリダやラカンは「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」という「断絶」において、倫理的な他者性を呼びこみ、「言語ゲーム」というパワー(暴力)ゲームを脱構築することを重視する。
「言語ゲーム」システムには、機械論と欲望論の二面性において、捉えなければならない、ということである。これは機械論という「身体」と欲望論という「心」に対応する。すなわち心身二元論は倫理的な要請としも必要とされる、ということだ。
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