なぜ映画「グエムル」は快楽なのか 

pikarrr2007-02-05

なぜいきなり怪獣映画なのか


たとえば狂気とは電車の中での独り言である。電車の中でのケーターは迷惑であるが、狂気ではない。彼は急いでいたのか、気にしないのか、とにかくマナー違反であることを知っていて、あえてやっていることをボクたちは知っている。しかし誰かが電車の中で独り言をしゃべるとき、回りになんの関心もなく退屈な場が、場の秩序を保とうとみなが懸命に努力していたことが暴露される。すなわち狂気はいつも僕らの中にある。

ソウル市内を流れる川、漢江のほとりで売店を営む一家がいた。家長ヒポンの長男カンドゥは、いい大人なのに店番すら頼りにならないが、娘のヒョンソを愛する気持ちは人一倍強かった。行楽客でにぎわうのどかな午後、人だかりのする方へ行ったカンドゥンは、橋にぶら下がり、うごめく大きな”何か”を目撃する。そして”何か”は土手に這い上がり、あっという間に人々を襲って喰い始めた。そして逃げる途中、娘のヒョンソはその怪物にさらわれてしまう。その夜、一本の電話がカンドゥンにかかってきた。「おとうさん、助けて…」


グエムル 漢江の怪物」 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD9335/index.html

映画グエムル 漢江の怪物」ASIN:B000JJ5G06)を見た。殺人の追憶と同じポン・ジュノ監督作品と言うことで期待していたが、結局劇場公開時には見ることができず、今回DVDで見ることができ、大変おもしろかった。

前作殺人の追憶で人間ドラマのリアリティを描く実力を見せた監督が、なぜいきなり怪獣映画なのか、という疑問があった。そしてこの疑問は映画を見終えたあとにこそ、より湧き上がってくる。

以下、ネタバレあり。




「エイリアン」への恐怖という安心


たとえばハリウッド系の怪獣映画では、映画「エイリアン」のように、その姿がなかなかみえず、見えないことで主人公達の恐怖が描写される。それは怪獣であっても、ジョーズであってもよい。その姿が隠されることで、恐怖は大きくなる。「エイリアン」ジョーズからの暴力は理解越えていることで「狂気」である。観客は、暴力を受ける人に同期して、恐怖心を味わうという心理的テクニックである。

そしてハリウッド系の怪獣映画の終わりでは、怪獣はヒーローによって退治される。正義は勝ち、悪は滅び、そして「弱いもの」は助かる。終わりという「着地点」では映画の中で生まれた負債が清算され、そして人々は安心する。

多くにおいて、ハリウッド系のエンターテインメントな映画は、最後はきれいに「着地点」に着地する。これらの映画の目的はジェットコースターのように過程の恐怖を味わうことであって、人々に「不安」をあたえることではないからだ。




ゴジラへの悲しみというメッセージ


グエムルの設定は、初代ゴジラに近い。人間のエゴから突然変異し、人間を襲う。そして最後にゴジラが倒されることで物語は「着地点」に到着する。しかし「彼」もまた人間のエゴの犠牲者であり、原爆という科学技術が産みだしたフランケンシュタインな悲しいモンスターである。

ゴジラという暴力は単に理解を超えたもととはいえない。「着地点」において、人々に清算されない残余が残る。その残余は、「彼」への同情と悲しみをうむ。そして「このような被害者を産まないように人々は原子爆弾を抑止するべきた。」というメッセージとなり、映画を越えて清算されることが望まれる。

グエムルもまたフランケンシュタインである。だからその存在には悲しみがあるはずである。グエムルが盗作したとされた日本アニメ映画WXIII 機動警察パトレイバーASIN:B00006G8R6)でも、怪獣を生み出す科学者を通して、その怪獣の「悲しみ」が描かれていた。そしてそこには残余としての、環境問題、体制批判のようなメッセージ性があった。




グエムルへの快楽という不安


実際にグエムルを見終えたとき、グエムルへのこのような悲しみはわかない。ゴジラのような同情(転移)は起こらない。「グエムルの背景はゴジラに近くても、その背景は弱く描かれ、むしろエイリアンやジョーズのように、理解越えた「狂気」として描かれているからあろう。

またグエムルでは、「エイリアン」のように恐怖が煽られることもない。「グエルム」は、最初から明るみに登場し、殺戮を繰り返す。これによって、観客が、「エイリアン」のように襲われる者の恐怖への転移を起こすことを抑止している。

また怠惰な日常をおくるダメ親父が怪獣に娘を連れ去られることで戦う父親と化すが、エンターテインメントを狙うならば、父は娘を命がけで助けるヒーローである。そしてボクたちは彼を応援するという転移が行われるだろう。しかし彼は「ただ娘を助けたい」というそれだけに盲信し、回りからどんどん解離し、狂人扱いされるともに、実際に狂気と化していく。それは、自らのミスで父親を死なせてしまうことで、ヒーローの座から転落させられる。そしてこのような狂気化は、観客が彼への転移することを挫く。

このような転移がことごとく挫かれることに、映画グエムルの特徴がある。




なぜ見ず知らずの子供が助かったのか


この映画の一つの不思議が、なぜ娘は死に、どこの誰かわからない子供が助かるか、ということである。普通の「着地点」ならば、怪獣は死に、父は娘は助ける。そして父はヒーローとなる。またそれをあまりにベタとするなら、逆にただ娘は死んでしまう、不条理を描く方法もあるかもしれない。このような残余は、環境問題、体制批判という社会悪へと回収されるだろう。

しかし娘が死ぬが、子供は助かる。そもそもこの「子供」はなに者だろう。背景もなく、どこの誰かもわからない。いわば、この子供はただ「助かる子供」としてのみ挿入されているようである。すなわち「着地」を挫くために、宙づりにするために。

このような転移の排除によって、浮上するものは、グエムルが人々を襲う、あるいは父がグエムルを殺すというような「暴力への快楽」ではないだろうか。しかしこの「暴力への快楽」は、ハリウッド映画のように見終わったあとに、ボクたちをすっきりさせるものではない。なぜならヒーローが怪獣をやっつけるような負債が清算されるような着地点へ導かない。

暴力に快楽してしまうということは、観客自身の狂気が開示されることであり、どのようなメッセージにも回収されなず、後ろめたいままに宙づりにされる、あるいは(そんな自分を)不快として感じてしまうかもしれない。しかしそれこそ狂気という暴力の純粋性への快楽ではないだろうか。




狂気の連鎖


前作殺人の追憶では、怠惰な日常をおくるダメ刑事が、ある事件をきっかけに「狂気」に取り込まれていく姿が描かれている。この映画のポイントも狂気である。純粋な暴力としての怪物の狂気を引き金に、発見されないウィルスを隠蔽し、化学兵器を投入しようとする体制の狂気、父親を殺されパニックになる家族の狂気、そして純粋な暴力に快楽する観客の狂気が連鎖されていく。

事件後、父と助かった子供は川沿いの売店で再び怠惰な日常を過ごしているが、ラスト、、雪降る川沿いの広場の夜、親子の住む小屋の明かりだけが、ぽつんとともっているというアングルでおわる。冬の川沿いに客などいないあろうが、それでも居座り続ける。彼はなにかを待っているのか(望んでいるのか)。この小さな小屋の中で宙づりにされた狂気が潜んでいるのである。
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