なぜ池田氏は「普通の経済学」といったのか 経済学の彼岸 その2
「普通の経済学」の「基礎の基礎」
「なぜ経済学的予測は必ず外れるのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070215にも書いたが、「池田信夫 blog」http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo界隈の「生産性」に関する「物語」はやはり興味深く、その後、展開もあるようなので、再度まとめてみる。
知らない人から「これは本当の話なんでしょうか。 もしよろしければ論評をお願いします」というコメントが来た。そのリンク先にあった「生産性の話の基礎」という記事は、私には(おそらくほとんどの経済学者にも)理解不能である。筆者の山形浩生氏によれば、これは「経済学のほんの基礎の基礎」だそうだが、それは少なくとも大学で教えられている普通の経済学ではない。・・・山形氏が赤いデカ文字で強調しているのは、「賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ」ということである。・・・普通の経済学では、賃金は労働の限界生産性と均等化すると教えている。
池田信夫 blog 「生産性をめぐる誤解と真の問題」 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/cd4e52fd7cca96ac71d0841c5da0cb75
この議論の始まりであるが、ここで重要なことは山形氏の「経済学のほんの基礎の基礎」と池田氏の「普通の経済学」である。すなわちこれは経済学という学問の内部の問題である、ということだ。だからそして以下で話は終わると言って良いだろう。
経済の各部門の限界生産性は異なり、それによって賃金も異なる。その集計として平均は算出できるが、それは因果関係を意味しない。テストの平均点が山形君の成績を決めるわけではないのと同じだ。
価格は、どんな教科書にも書いてあるように、需要と供給で決まるのだ。その需要を決める要因の一つが所得だが、所得水準が上がれば価格が自動的に上がるメカニズムがあるわけではない(PCのように競争的な製品の価格は所得と無関係に下がり続けている)。ましてウェイトレスの所得と「平均生産性」には、何の関係もない。製造業の生産性が上がっても、たとえばジャズ喫茶の限界生産性が下がれば、そのウェイトレスの時給は下がるのである。
池田信夫 blog 「生産性と「格差社会」」 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b8b2dd3502ef769c7f5baf18143f53e1
「普通の経済学」とはなんだろうか
経済学の基本である「価格は需要と供給で決まる」が正しくないことをボクたちは経験として知っている。たとえばジャスコのカバンとシャネルのカバンの価格差は、需要と供給で決まっているわけではない。経済学的世界などどこにも存在しない。それはあくまで理想化された世界であり、指標であり、ボクたちが住む世界は「経済学の彼岸」にある。
その意味では、池田氏が使う「普通の経済学」という言葉はとても重要である。そこには、「経済学と言われる内部の「基礎の基礎」に山形氏のいう「賃金水準はその社会の平均的な生産性で決まる」という教えはない。だたし経済学の彼岸において、実際にそのような例がないということはいえないが。」ということだ。
だから分裂勘違い君劇場の「「他人の生産性が向上すると自分の給料も増えるのか?」を中学生でもわかるように図解してみました」 http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070215は本質的には意味がない。もはや「普通の経済学」という内部を踏み越えているからだ。経済学の彼岸においては、いくらでも経済学の「教え」にあわない事例を上げることはできるからだ。
しかしでは「普通の経済学」とはなんだろうか。これを問うてしまうと、この議論は成り立たない。学問組織体制があり、そこで基礎として教える教科書があるのだ、としかいえないだろう。
山形浩生氏との訳のわからない「生産性論争」も、ようやく終結したようだ。前の記事には「学部生向けの経済学Iの内容がここまでも世間では理解されていないということに衝撃を受けています」という経済学者のコメントが来たが、私も同感だ。経済学ってつくづくマイナーな学問なんだな・・・
池田信夫 blog 「賃金格差の拡大が必要だ」 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b697e23a80b6602167c2f5e43ebad041
賃金格差と「幸福」
池田氏は「終結宣言」のあと、「普通の経済学」ではなく、経済学の彼岸を語り出す。ただし池田氏は経済学信者であり、経済学内部をそのまま拡張して語るために、そこに境界を見いだすことはできない。だからなおさら、「山形浩生氏との訳のわからない「生産性論争」も、ようやく終結したようだ。(池田)」という宣言があえて必要とされたのだろう。
そして山形氏の名前が挙げられるが、「世間相場」(平均生産性)として意味されるものは、もはや山形氏のいうものとはなんの関係もない。池田氏の市場原理主義的な持論に差異化されたもの、たとえば最近社会におこっている「格差社会」を悪とするような保守主義傾向だろう。
山形氏が誤解しているように、賃金が限界生産性と関係なく「世間相場」(平均生産性?)で決まると思っている人は多い。・・・しかし、このような限界生産性から乖離した賃金決定は、各部門の生産性の格差が拡大すると維持できない。生産性の上がらないサービス業で製造業並みの賃上げを続けていたら、経営は破綻する。
保護貿易によって国内市場を競争から遮断することはできるが、成長率が低下するばかりでなく、保護された産業の競争力が衰えて、長期的にはかえって危険である。知識集約型の製造業や金融を含む広義の情報産業などの付加価値の高い産業に特化して、日本の比較優位を生かすしかない。
要するに、山形氏が当然のものと思い込んでいる横並びの賃金決定が、一方では非正規労働者や失業者を増やし、他方ではプログラマの悲惨な生活をもたらしているのだ。日本経済が中国との競争で生き残るためには、むしろ各部門の限界生産性の差に対応して正社員の賃金格差がもっと拡大する必要がある。
「市場原理主義」を否定して、・・・『国家の品格』に涙する老人の支持は得られても、若い世代の支持は得られないだろう。労働者を守ることと、労組の既得権を守ることは違う。いくら所得を再分配しようとしても、国際競争に敗れて収益が低下したら分配の原資がなくなる。よくも悪くも、昔に戻ることはもう不可能であり、市場原理を認めた上で前進するしかないのである。
池田信夫 blog 「賃金格差の拡大が必要だ」 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b697e23a80b6602167c2f5e43ebad041
このような「格差社会」を悪とするような保守主義傾向は、そこに格差がないわけではないし、悲惨な実情がないわけではなし、それを示すデータがないわけでもないが、事後的に次々と証拠が上がってくるような一つの社会的な雰囲気である。さらにいえば「同じ日本人なのに」というような負債感の連鎖による「日本人共同体」感のようなものであり、『国家の品格』もベストセラーになったのだし、あるのだ、としかいえないようなものだ。
経済学という貨幣交換の世界では、曖昧で感情的なものである。とくに国際競争の中では、このような閉じた連鎖は排他的なナショナリズム以上には価値を持たないかもしれない。しかし経済学の彼岸である実社会では、人々は経済学的よりも、社会的な雰囲気としての「世間」は大きな影響をもってしまう。そしてこのような曖昧な「日本人共同体」感において、賃金が限界生産性と関係なく「世間相場」(平均生産性)のような共同体圧力として決まることは十分起こりえる。
これは、経済学という科学的言説が論理的で、「世間相場」(平均生産性)のような言説が曖昧な億見(ドクサ)であるということではなく、「普通の経済学」も事後的にあるようにふるまわれるような信仰でしかない。
その意味では、ほんとうの議論は、「世間相場」(平均生産性)が「普通の経済学」にあるか、どうかでなく、池田氏が指摘するような「賃金格差の拡大が必要」であるというような言説について、経済学という道具を活用しつつ、経済学の彼岸の「幸福」について議論をすることだろう。
「幸福!?そんな曖昧な議論しても話が進まないだろう。」「それが「普通の経済学」という幻影の彼岸です。」
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