なぜ経済学で「幸福」は語れないのか  経済学の彼岸 その3

pikarrr2007-02-19

「 なぜ池田氏「普通の経済学」といったのか 」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070216のコメント欄からの転用です。(改訂有り)


tako
別に経済学は「幸福」議論していないわけではないんだけど。ただ、標準的な大学の学部レベルの経済学では議論しにくいだけ。

pikarrr
経済学の「幸福」議論とはどのようなもののことを言っているのでしょうか。行動経済学「幸福」議論とは幸福とはなにかを議論することだと思います。

tako
経済学では「幸福」のことを「効用」という言葉で表します。初級の経済学では効用は金銭(もしくは金銭で買うことができる物・サービス)のみに依存するようになっています。よって経済学では「お金」しか扱ってないような感じがするかもしれません。しかし、中級以上の経済学では、例えばこの「効用」を構成しているものの中に他の人の効用を入れることがあります。

つまり、自分以外の人が幸せだと自分も幸せになれるというようなことも(他人の不幸は密の味ということも考慮できるわけですが)考慮して考えています。この自分以外の人を家族とすることが多いわけですが他にも国民全員等にすることも行っています。

pikarrr
「効用」という自己完結的な満足へと還元

経済学の基本である「効用」は、功利主義からきています。功利主義が画期的であったのは、幸福のような曖昧なものを、「効用」という自己完結的な満足へと還元したことです。これによって、貨幣交換による資本主義、リベラリズム自由主義)を「科学的」に語る下地を作りました。

最近、行動経済学のように、従来の経済学が合理的すぎるために、人間らしい心理学的側面を考慮しようという考えがあります。しかしこれらにして、幸福のような曖昧なものを自己完結的な満足へと還元することにはかわりません。

takoさんが言われる、「効用」を構成しているものの中に他の人の効用を入れる」というのが、なにに対応するのかわかりませんが、「効用」を想定している時点で、「経済学」の域を出ていないのではないでしょうか。

「経済学の彼岸」「他者」

たとえば「恋は盲目」と言われるように、人が恋するときに、功利主義「効用」で説明できません。誰に恋をするのかは偶然であり、さらに好きになるほどに満足であるとともに不満足である。愛であり、憎しみという「転移」の関係です。合理性、経済性を無視し自己破滅的にもなります。

たとえばシャネルのカバンはあんなに高いのになぜ買われるのか。他者が欲しがっているからです。他者が欲しがっているものを所有することで、愛されたいということです。しかしそれは失敗しますので、さらにほしくなるということです。欲望は終わりがありません。

経済的にいえば、これは経済学で扱われる貨幣交換に対する、贈与関係に近いでしょう。貨幣交換は基本的に貨幣をもっている相手なら、誰かを選びません。それに対して、贈与関係は他者がだれであるかが重要です。転移関係によって作動します。先に経済学の彼岸として、「同じ日本人なのに」というような負債感の連鎖による「日本人共同体」感を上げました。これも、贈与関係です。

「科学の彼岸」という倫理的な次元

これらは構造主義的ですが、重要な点は下部構造を、「経済学」という言語にするか、ボードリヤールのように差異の体系としての言語そのものにするか、レヴィ=ストロースのような贈与関係にするか、ではなく、これら構造の向こうの「他者」にこそ、「彼岸」はあるということです。

どのような構造も「他者」との関係の中で事後的に生まれるものであり、たえず変化するものです。だからそもそも「他者」との関係において、「効用」という自己完結的な満足は存在しません。すなわち「普通の経済学」などは存在せず、あるだろう思いがどこかにあるように見せているしかありません。

そしてそのとき「他者」は抑圧されるのです。
「他者」とは少数派、異文化などであるとともに、またボクたち自身の「他者性」です。先に「幸福」議論とは幸福とはなにかを議論することだ」と言ったのは、そのような意味です。

ボクは個人的には、経済学というのは、合理的な「効用」へ還元し、理想的な状態を記述することを目指す方がもっとも有用であると考えています。なぜならどこまで複雑にしようが、「経済学の彼岸」としての現実との差異は残り続けるからです。 そして「経済学の彼岸」とは「科学の彼岸」です。「科学の彼岸」とは、科学技術とは一つの参考モデルとして活用するとともに、その限界を知ることが重要であるという、倫理的な次元です。ベタにいえば、「お金は大切だが、お金で幸せは買えない」ということです。

*1