なぜネットコミュニケーションは難しいのか 知ってほしいネットリテラシー

pikarrr2007-03-09


言いたいことが伝わらない


最近ほんとにネットコミュニケーションの難しさを実感することが多い。とにかく言いたいことが伝わらないし、極端には逆の意味で伝わってしまう。これはもちろんボクの言語能力(国語力の低さは自覚しています)であり、人間関係の問題ではあるが、またネットコミュニケーションに内在するコミュニケーションの難しさでもあると思う。自分の反省も含めて、ネットコミュニケーションの難しさを語ってみたい。




コミュニケーションにおいて純粋なメタ位置は存在しない


精神分析と心理学の違いは、それまでの物理学と量子力学の違いに似ている。従来の物理学が対象を客観的な位置から観察するという科学的理念を実現するのに対して、量子力学不確定性原理が示したことは、観察そのものが対象に影響を与えてしまい、客観的な位置を保つことが難しいことを明らかにしたことである。

心理学では科学的理念が目指され、いかに人間という対象を客観的に観察するかが問題になる。そこから行動心理学のように曖昧な内面でなく、客観的に観察しやすい行動を研究するような方法が生まれる。

精神分析では、医者が対象(患者)を観察するというような客観的な位置は存在しないことに自覚的であり、その上でいかに治療は可能かが大きな問題となる。治療の場とは、すでに医者も巻き込んだ場として形成され、対象(患者)は観察者の影響を受ける。

この場の形成こそがコミュニケーションである。精神分析に限らず、コミュニケーションにおいて純粋なメタ位置は存在しない。




想像的な愛憎と象徴的な役割


さらに精神分析が示したのは、このすでに巻き込まれるコミュニケーションがとても緊張をはらんだものであるということだ。そこでは他者は私であり、私は他者であるという所有権の問題がおこる。これが良好ならば他者への愛であるが、それはまた憎しみと同じものである。

しかしこのような愛憎の「想像的な関係」だけでは、社会的な生産活動がむずかしくなる。このために超自我という規律により「想像的な関係」は調停される。すなわちみななんらかの社会的役割を演じることで、規律ある社会関係が営まれる。たとえば親と子、彼と彼女でさえ一つの役割である。その他、父、母、子、恋人、友達、先生、生徒、上司、部下など。

この「象徴的な」作用の影響は、子供が言葉を習得することで獲得するというように深く作用している。 だから純粋に「想像的な関係」は言葉を獲得する前の生まれたばかりの母子のようなところにしかない。しかし社会においても、他者へ向かおうとする「想像的な」力は、「象徴的な関係」に抑圧される形でたえず強力に働いている。




ネットコミュニケーションは想像的闘争にいたる


ネット上のコミュニケーションも想像的な関係と象徴的な関係のバランスで成立している。とくにネットは匿名であるということで、社会的役割から解放されるなど、「象徴的な」抑圧が働きにくく、愛憎という想像的な力が浮上する。ネットコミュニケーションがどこのだれかわからない匿名同士の短期的な関係にかかわらず、実社会の関係よりも身近なものに感じるのはこのためである。

またそれは炎上のように愛憎の闘争関係に向かいやすいことをしめす。そしてこのような闘争関係はどちらが正しい(意見を持つ)という所有権の問題として現れる。その想像的な所有権とは、私を形成する一部、肉と血であるために、プライドをかけた引くに引けない感情的なものとなる。




ネット上のコミュニケーションはほんとうに成立しているか


さらにネットにおいて想像的な関係が浮上しやすい背景としては、相手のことを良く知らず、その場も共有されていないところで、テキストのみを交換するという極限的なコミュニケーション条件がある。

言葉の意味とはその場の状況(コンテクスト)と切り離しては生まれない。たとえば「馬鹿!」という言葉は、怒っている親か、友達の雑談かなど、どのような状況で発話されたかで、大きく意味が違う。さらにいえば、それでも言ったものと聞いたものとでは同じ意味を共有するとは限らない。冗談での愛のある「馬鹿!」が、相手には蔑視で取られることは避けられない。

だからむしろネットにおいて、良く知らない相手とテキストのみの交換でコミュニケーションが成立していることが驚きであるし、本当にコミュニケーションが成立しているか、かなり怪しい。受け手は耐えず、勝手に意味を読み込んで理解し、お互いにコミュニケーションが成立しているように気になっているだけであると考えた方がよい。




想像的な関係こそがネットコミュニケーションの魅力である


しかしこのような想像的な関係こそが人々がネットコミュニケーションに向かわせるものである。社会的な抑圧からの解放、すれ違うことで伝わらない故に伝えたいと熱くなる。ここに人々を魅了するネットコミュニケーションのおもしろさがある。

ただ冷静に事実を述べあう議論はないし、議論の結果、明確な答えに到達する議論もない。そこにはどこにもいきつかず堂々巡りの中でコミュニケーションそのものを楽しむ「想像的な関係」の成立があり、だからこそ容易に闘争関係に転倒する。

たとえば最近あった「池田山形経済学論争」*1も、最後には、いった、いわないという水掛け論で終わったが、どこまで学術的であったかあやしい。お互いに実名で、相手を知った関係であったが、だからこそ経済そのものの議論であるよりも、経済学に詳しい者という所有権の問題であり、プライドをかけたものであった。それはネットのあちこちで起こる炎上の構図そのものである。




2ちゃんねるスタイルの限界


このような背景の中で2ちゃんねるは生まれた。ネットコミュニケーションをある程度経験したものは、自然とネットが愛憎の想像的な関係に陥りやすいことを学ぶ。それを毎回毎回マジにやり合っていたのでは身が持たない。だから想像的な関係を操作する方法として、メタ(ネタ)の次元を導入する。

2ちゃんねるで言われた「ネタにマジレスかっこわるい」とは、「ネットが熱くなりやすいことも知らないのか。まだまだ初心者だな。オレは熟練者だからマジになっているようなふりをして、あくまで冷静な視点からネタとして語っているんだぞ。格好悪いから、オマエも頭冷やせよ。」ということだ。2ちゃんねるは不真面目で、ネタ的でふざけた態度であると言われるが、それはネット上の想像的な闘争を回避し、コミュニケーションを楽しむためのテクニックでもある。

たとえば、一時期、若者の間で、「〜っていうか」「〜みたいな」ということが流行ったが、これも同様に発話にメタ的な次元を導入し、発言がきつく取られることを回避し、コミュニケーションを円滑に進めるための工夫であった。

しかし現在においては、もはやスタイルだけが先行され、中身がなく、必死にメタに立ち優位であることを誇示するだけ、あるいは2ちゃんねるノリであればなんでも許される、という勘違いを招いていることは否めない。2ちゃんねるノリが共有されていない場では、2ちゃんねるノリの単文はなにも伝えないし、受ける者には、伝える意志を欠いた不快で、脅威的なものでしかない。




まとめ

・ネットコミュニケーションはプライドをかけた想像的な闘争に至りやすい。
・ネットコミュニケーションは正確に意味が伝わりにくく、悪意をもって取られやすい。
・このような困難こそが人々を魅了するネットコミュニケーションのおもしろさでもある。

以上のようなことに自覚的であり、以下が重要になる。

・コミュニケーションにおいては丁寧で正確なコメントを心掛ける。特に始めてのコンタクトには最善の注意が必要である。
・(単文で)曖昧なコメントがきた場合には勝手に意味を読むよりもまず意味を確認すること。そのようなコメントはこちらが思うほど深い意図はなく反射的に行われている。
「放置する」勇気も重要である。

はたしてこの内容は伝わるだろうか・・・
*2

*1:「なぜ池田山形論争はおもしろいのか  経済学の彼岸 その4」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070221

*2:画像元 http://aoyama0088.269g.net/article/2471324.html