「経済とは経済学である(でしかない)」

pikarrr2007-03-10


政治(学)、社会(学)、経済(学)


経済とは、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体。」*1であり、それが経済学とは違うことは当たり前である。しかしここには複雑な問題を絡んでいるのではないだろうか。かつて宗教により統括されていた次元が、近代において、政治(学)、社会(学)、経済(学)として分割された。だからこれらは比較的新しい領域である。その中でも、社会と社会学、政治と政治学は違うものであることは感覚的にわかるが、経済と経済学は混同されやすい。

政治的指導者たちは、むしろ現在についての情報の必要を感じていた。かくしてその必要に応ずるべく、新しく、おおきく三つの個別科学が現れてきた。すなわち、経済学、政治学、そして社会学である。しかしなぜ、過去を対象とする研究が一つであるのに対して、現代を対象とする個別科学は三つということになったのだろうか。これは、十九世紀の支配的なイデオロギーであるリベラリズムが、近代性というものを、市場と国家と市民社会との三つの社会的領域への分化へと定義したからである。その定義によれば、これら三つの領域は、それぞれ異なる論理で機能するものであり、社会活動において、ひいては知的活動においても、三つの領域は、それぞれが個別のものとして扱うべきであるとされた。かくして、三つの領域を対象とする研究は、それぞれに適した別々の方法論−すなわち市場は経済学、国家は政治学市民社会社会学−によらねばならないということになったのである。

これらの三つの領域についての「客観的」知識はいかにして得られるのかという問題である。対する答えは、この場合、歴史家の場合とは異なるものとなった。[経済学、政治学社会学という]それぞれの個別科学において支配的な考えとなったのは、社会活動のこれらの諸領域−市場、国家、市民社会−は、法則性をもって機能しており、その法則は経験的分析と帰納的一般化によって認識することができるというものであった。これは、まさに純粋科学が、その研究の対象に対して前提としている考え方そのものである。したがって、これらの個別科学は、法則定立的個別科学(すなわち科学的法則を追求する個別科学)だということになり、歴史学がそうだとされるような個性記述的個別科学(すなわち社会的現象の一回性を前提とする個別科学)と対置されることになる。P30-31


「入門・世界システム分析」 イマニュエル ウォーラーステイン (ISBN-13:978-4894345386)




経済学は(無意識に)構造化される


この理由を考えると、「経験的分析と帰納的一般化によって認識する」場合に、政治、社会が人という質を扱わざるおえないのに対して、経済学には貨幣という量をもっていることがあげられる。マルクスは人々が貨幣に引きつけられる物神性(フェティシズム)を暴露したが、それとはまた異なる次元で、量は、客観的な事実とされやすい。これは、人が数字を信じやすいという心理学的なものであるだけではない。

数字には実際、力がある。数はより正確な伝達を可能にする。そして伝達された場所で、正確に反復される可能がある。そして実際に多くの反復されることで、一つの秩序として構造化されていく。これは言葉そのものが持つ力であるとともに、「経験的分析と帰納的一般化」において、数字は言葉の中でも優れている。

これは、経済学が経済をより客観的に記述するということだけではなく、経済学そのものが経済を構造化することを意味する。たとえば企業をあらわすのに損益計算書(PL)や、 貸借対照表(BS)などの指標が使われが、損益計算書(PL)は企業の経営状態をしめす指標である以上に、企業の正しい在り方を示す一つの思想である。損益計算書(PL)が良好であれば正しいということではなく、損益計算書(PL)そのものが正しさとはなにか、すなわち企業とはなんであるか、をつくるのだ。

言葉で理念的に企業の正しさが伝達されるよりも、その正しさが数字による指標として伝達され、それぞれの企業で容易に反復され、比較されることで、もはや疑われることがない事実として(無意識に)構造化されていく。これは構造主義そのものである。




「経済とは経済学である(でしかない)」


だからといって、それが企業のすべてではないし、経済は経済学がすべてではない。これは世界は不確実であり、為替などが経済学的な予測が外れるという意味ではなく、そもそも経済というものは存在しない。社会活動の諸領域−市場、国家、市民社会−が、それぞれに法則性をもって機能しいるというリベラリズム的な理念でしかなく、市場、国家、市民社会は密接に作動し、切り離し取り出せるようなものではない。

だから逆にいえば、経済学が扱う領域という定義においてのみ、経済というものがそこにあらわれる。すなわち「経済とは経済学である(でしかない)」ということかもしれない。

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