ネットはネオリベラルなグローバリズムを欲望するか

pikarrr2007-03-16

資本主義的な金銭経済とネット上の非金銭経済の対立


ボクは、ネットのラディカルさは、無法地帯にあるのではなく、贈与を中心に経済が形成されて、非資本主義的な力、資本主義的経済に対する「神的暴力」を持つことだといった。ここには、資本主義的な金銭経済とネット上の非金銭経済の対立がある。確かに著作権も問題などで、このような問題が顕在化しているが、本質的な問題を忘れているのかもしれない。

2ちゃんは匿名だから、実社会よりも、社会的な拘束から解放されやすいのは確かですね。社会的な関係(象徴的関係)の抑圧が弱まる。その結果として重要なことは、好き勝手できるというよりも、想像関係(愛憎)が表出しやすいということでしょう。・・・より簡単にいえば、誰かのためになにかをしたいということが加速されてしまう。

Winnyなどでコピーが出回るのは、だれも資本主義的な秩序としての著作権システムを解体させる反(資本主義)社会的だと思っていない。ただ誰かのためになにかをしたい、それが楽しいだけということで行われる。それが、資本主義そのものを解体するような(非資本主義的な)力をもってしまう。

2ちゃんねるを代表するようなネットの現象が、無法地帯、ユートピアということ以上にラディカルであるところです。そしてこの変化は資本主義2.0?のような、新たな秩序の設立が必要となるでしょう。これは、トフラーが「富の未来」(ISBN:4062134527)で言及した、「非金銭経済」や、「プロシューマー(生産消費者)」に繋がるでしょうが、トフラーがいうように金銭経済と非金銭経済は同じ次元では語られず、「経済」とはなにかのということが問われるでしょう。


[議論]ネットは「経済」とはなにかを問う http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070311




リアリティのネットへの移動

これはオタクでなくても、反復されるところではどこでも起こることだけど、オタクがデータベース化しやすいとすれば、オタクは空気を読みすぎてつかれるから、人とつきあうのが面倒になって、コミュニケーションからの退避することで、神経症的にものに執着し、読み込みすぎ、反復する傾向が強いからかも。

オタクが自ら動物化と呼ぶときは、「わたしは(空気を読まなくて良い)動物になりたい」という願望があるのではないでしょうか。・・・そしてオタクはネットでは、空気読みから解放され、饒舌になり、素がでて「おばちゃん化」する。動物のフリで抑圧していた人間臭さが爆発する。・・・現代は、価値多様で誰もが空気を読みすぎてつかれるから、このような傾向を持つでしょう。ものへ執着するように他者回避(動物化)しながら、ネットではおばちゃん化している。


[議論]オタクはネットでおばちゃん化するか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070313

マネーゲームに破れたものがコミュニケーションゲームに興じるのが従来の構造であり、いまの格差社会論もこの流れで語られる。この言説に違和感があるのが、下流と呼ばれる人々が怒るよりもその状況を自ら享受している面があることだ。

重要なこと(リアリティ)はネット上にあり、現実社会は他者回避され、速やかにやり過ごされるものでしかない。これはデフォルメしてはいるが、現代人一つの傾向である。リアリティがネットにあるということは、現実逃避のようであるが、リアリティはいつも想像的なものの周辺にあるのだ。たとえば貧しくも自らの表現を目指す芸術家を現実逃避といわないように、芸術家のリアリティは彼が想い入れる対象、そしてコミュニティの周辺にあるのだ。

だから、ここでは格差社会と言われているものは、マネーゲームに興じるものと、コミュニケーションゲームに興じるものの差でしかなく、異なるゲームであって、金銭によって一元的に価値差を見いだせるものではない。ただどちらにリアリティティを見いだすかだけのものであり、歴史的にはむしろ金銭にリアリティを見いだす方が異常である。




ネオリベラル的な金銭経済とネット上のアソシエーション(非金銭経済)の共犯関係


このような構図を成立させるためには、資本主義的な経済が「コンビニエンス」な解決を志向することと、ネット上で人々が饒舌になることは、共犯関係になければならない。ネット上の非金銭経済が発展するほどに、現実の金銭経済が発展することが望まれる。より「コンビニエンス」機械的に処理することを望む。新自由主義は明らかにネットを中心として情報化社会を背景に支持されている。

ネットによって、「想像的なもの」としてのネーションが、地域コミュニティからネットへ移り、それを補完するためのネオリベラル的なものが求められていると考えられないだろうか。グローバリズムはネット上の贈与コミュニティを維持するために必要不可欠である。だからネットの与えた経済的なインパクトは、コピーの氾濫による損失でも、グーグル、アマゾンによるネット上の金銭経済でもなく、グローバリズムという資本主義世界の拡張そのものにあるのかもしれない。

鈴木謙:ただ、サイバーというものとの関係と、保守主義国家主義という話と絡めると、僕は情報技術が綺麗に明文化された形で3つに分かれるとは思っていません。たとえばすべての立場に寄与しうるような技術というものがあると思うんです。たとえば「監視技術」というのは典型的にそうです。破れ窓理論はたしかに黒人や貧乏人をニューヨークから排除する意図を持っています。しかし同時にあれはコミュニティ再生のための理論でもある。つまり貧乏な人や治安にとって脅威になりそうな人間を排除する代わりに、古くなった学校の破れている窓を修復して、そこをアートスクールにして若者を呼び込み、コミュニティを活性化させましょう、という政策とワンセットになっている。つまりこれは監視が一方で強力な排除exclusionを呼び出すネオリベラリズム的なものであると同時に、コミュニティ内部への包含inclusionを強めるものとなっているという図式です。

東:それがまさに、リベラリズムコミュニタリアニズムの共犯関係なわけですね。一方では流動性を高め、他方ではコミュニティを守る。このふたつを両方とも確保するために監視技術は使われている。


ised@glocom倫理研第1回 http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/00071030