なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか

pikarrr2007-03-19

マクドナルド化社会」


ボクがいう資本主義システムによる「コンビニエンスな」解決とは、マクドナルド化する社会」ISBN:4657994131)に対応するだろう。しかしこれでは、なぜボクたちがマクドナルドへ向かうのか、の説明にはなってのではないだろうか。

20世紀の初頭に、ヘンリー・フォードによって生み出された生産体系にフォーディズムというものがある。フォードが生み出した『大量生産』は20世紀の工業をまさしく象徴するようなものへとなっていった。・・・当然この生産システムは、現在のマクドナルド化の元になっており、・・・標準化された作業手順によって脱熟練化になり、労働者の均質化や大衆労働が可能となったのである。最後が消費の均質化である。これもフォーディズムのように、大量生産された製品を販売するための市場が成長することで、消費の方も均質化していったのだ。

またマクドナルド化は、簡単に言うならば、人間の技能を機械(人間に寄らない技術体系)に置き換えることで、いかに合理化するかというものである。・・・脱人間化された状況のことである。機械化が進むにつれて人間の思考を制御し、考える必要をなくす点である。・・・これはマンハイムの言葉を借りるならば「思考能力の喪失」であり、言い方を変えるならば、機能的合理性の浸透によって実質的合理性が低落してしまうということである。そしてそれは国民的アイデンティティと個性の喪失という世界を生じてしまうことになる。

マック職に顕著な特徴の一つとして、人々が仕事上で口にする事を高度にルーティン化しているという点をあげることができる。・・・マクドナルド化された職種は激しくマニュアル化されているのである。・・・ マック職における労働過程のうち、極めて重要なことは、かつて有給の従業員によって行われていた作業の多くを、無給で客が行うように誘導され、仕向けられているということであろう。・・・ある意味ではマクドナルド化システムの成功の鍵は、そのシステムが従業員からの搾取を、客からの搾取によって補うことができたことにある。


マクドナルド化社会」 葛原怜 http://eri.netty.ne.jp/honmanote/kyozai/economy/001mac/index.htm




社会的な流動性の高まりはまなざしによる宙づりを生む


たとえば田舎の常連客の集う店に一人で入る、女性が一人で定食屋に入る、マナーが求められる高級レストランに入るのは恐怖である。この恐怖の源泉は他者からのまなざしである。まなざしとは視線ではなく、見られているだろう自意識に存在する。人はまなざしという懐疑のなかで、こう思われているのでは、ああ思われているのでは、「女性が一人で食事をするのはだらしない」のような自分の内面にある社会的な規範(超自我)によって、宙ずりにされる。

地域など場に固定されていれば、まわりは知った者で心が通じ合い、このような宙づりは起こりにくい。社会的な流動性が高まると多くにおいて、このような他者性がむき出しになる状況が多発し、人々は疲弊する。他者性がむきだしになるとは、大きな物語を共有するコミュニティが凋落し、他者がなにものでなにを考えているかわからないということだ。




マクドナルド化儀礼的無関心サービス


そして生まれたのが儀礼的無関心という不干渉である。場の空気を積極的に共有しないという場の空気である。都会にきた田舎者は排除されるというのは、無関心と儀礼的な無関心を勘違いするからだ。場の空気を積極的に共有しないという場の空気があることが読めないためである。これはダサいものとされる。

最近良く言われる「場の空気を読む」とは、いまなにに関心があるのかよりも、なにが無関心化されているか、ということだ。儀礼的無関心では、なにがあるかではなく、ないことでなにがあるかというより高度な読みが求められる。

マクドナルド化儀礼的無関心という不干渉を積極的にとりこんだシステムであり、まなざしによる宙ずりを解放することで居心地のよい空間サービスを提供する。相手がだれであるかには関係なく、マニュアル化されたサービスが提供される。客はその不干渉に安心する。たとえば寝巻だろうが、薄汚かろうが、子供だろうが、それがなかったかのように無関心に対応される。たとえば女性が一人で食事をしやすい場所、マニュアル化された機械的な対応なのに(だからこそ)「街のほっとステーション」でありえる理由、それが人々がマクドナルドへ向かう理由である。




マクドナルド化する社会」という経済的疎外論


たとえば輸送機関の発達は、人の身体(物体)を場から場への容易に運搬する。あるいは最近では情報化によって、人の身体(物体)は移動しなくても、次々に情報が流れ込み、次々と新たな場に巻き込まれる。そしてそこに他者性が剥き出しになり、軋轢がうまれる。そして社会が流動化する中で、人も物や情報と同じように、流動性に対応するために、このような他者との軋轢を回避する潤滑として、無関心が重視されている。

しかしこのような流動性への順応の先には無個性な個体としての存在しか残らない。ただ黙々と出されたものを食する。それがマクドナルド化=家畜のように食事をする動物化へと繋がる。先のマクドナルド化社会」で示される消費の均質化、個性の喪失、従業員と客からの搾取という、マクドナルド化に順応する(させられている)経済的な疎外論である。




マクドナルド化という自由を補完するシステム


以前は地域的なコミュニティに帰属し助け合わなければ、生存することができなかった。人は生まれたときに、地位や思想などを決定され、その地域で助け合い生きることが求められた。それに対して、フォーディズムからマクドナルド化という資本主義は他者に依存せずに生きることを容易にし、人々は慣習的な拘束から解放し、多様な価値で「自由」に生きることを可能にしたということだ。

人はただこの状態に順応しているだけではない。一方で存在意義を求めることがおこっている。仕事、恋愛、ネットコミュニケーションへの没入、自分探し、あるいは身の回りに個性的なものを配置することで他者とは違う自らの存在意義を見いだすオタク化などなど。このような見方からは、マクドナルド化は自分らしさを見いだすための「自由」を補完するシステムとして現れる。




ボクたちがマクドナルドへ向かうのはフロンティアで格闘しているためである


そしてこのような「自由」の先に、ネットはある。イラク人質事件の自己責任論や、最近のホリエモン有罪判決への批判など、個人主義を求める傾向があり、ネオリベラリズムを欲望しているように見える。そして、マクドナルド化は、このような欲望を満たすために、効率的に安価にすみやかに身体的欲求を満たし、ネット上での「自由」に打ち込むための補完システムとして求められている。ネオリベラリズムがその先の共産圏の破綻、保守主義の破綻からきていると語られるが、ネオリベラル台頭にはかつてIT革命といわれたネットの爆発的な普及も背景にしているように思う。

さらに好意的にみれば、このネットの「自由」は無法地帯であるだけでなく、一つのフロンティア精神でもある。あるいはグローバリズムとは野蛮な世界に資本主義を広げるというフロンティア精神であるともいえる。

新たな荒野にはまだなにかがある。とにかく自由にさせろ。現実社会はただすみやかに効率的に運べばよい。これこそ重要だ。これは、ハンバーガーに繋がる。ハンバーガーがアメリカで発展したのは、重要なことをするために手早く食事を済ませるためであるという意味で、フロンティア的食べ物である。

ボクたちがマクドナルドへ向かうのは、ボクは食事をする以上に重要なこと(フロンティア)と戦っているためである。フロンティアなサバイバルでは格差社会も仕方がないし、重要ではない。これは、ネオリベラリズムが見せる幻想だろうか。引きこもり、マンガ喫茶難民、団地の一室での孤独な身体がみる夢だろうか。
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*1:参照 「ボクたちがマクドナルドへいくのは食事に時間を割くよりも「重要なこと」があるからだ。」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060810