なぜ「動物化」を欲望するのか
「欲望はない」と繰り返し言い聞かるような主体
「Freezing Point」の「斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」」の講演レポートhttp://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070315が大変おもしろい。前半のクオリア、ゲーム脳など、なんでも脳科学への還元して語る最近の風潮への的確な批判もおもしろいが、後半の上山さんとのやり取りに興味を引かれた。
・・・ひきこもりの場合非常に特殊なのは、・・・欲望は持たされているにもかかわらず、それを実現する手段を奪われてしまっているがために、「自分には欲望はない」と繰り返し自分に言い聞かせ続けているような主体。
あるいは、欲望がないというふうにかなり実体化させられてしまった主体といえるかもしれない。 通常、欲望のコンテクストに参加している主体というのは、常に自分が自分であることを意識しながら生きているわけではない。 自分の主体性をいちばん強烈に認識するのは、「自分は不完全だ」「欠けたものがある」ということを意識する主体だが、――ひきこもりの主体は、自己放下していいはずのところで過度に「自己という実体」に縛られすぎるゆえに、流れに合流しそびれ続けてしまうのではないか。(斉藤環)
「Freezing Point」 斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070318
動物化への欲望
ひきこもりのことはわからないが、「「自分には欲望はない」と繰り返し自分に言い聞かせ続けているような主体」は、ひきこもりにおいて特殊であるというよりも、これはまさに「動物化」していると言いはる?オタクにいえるように思った。彼らは、「自分には欲望はない」と繰り返し自分に言い聞かせ続けている、ように思う。
あるいは、オタクに限らず現代人の特徴である。このような傾向の一つが、「空気を読むこと」につかれる社会ということである。マクドナルドで家畜のように食事する(動物化)に安らぎを求める。そして自らに「欲望はない」と繰り返し言い聞かる。
流動化する社会を生きるためには、自ら流動化に対応した「適応」を求められる。簡単にいえば、心を遮断し、身体(動物)として存在する。欲望を亡き者にして、欲求で生きる。すなわち心、欲望とは他者との関係性、他者への想いを隠蔽する。これは動物化ではなく、「動物化への欲望」である。
社会的な流動性が高まると多くにおいて、このような他者性がむき出しになる状況が多発し、人々は疲弊する。他者性がむきだしになるとは、大きな物語を共有するコミュニティが凋落し、他者がなにものでなにを考えているかわからないということだ。
マクドナルド化は儀礼的無関心という不干渉を積極的にとりこんだシステムであり、まなざしによる宙ずりを解放することで居心地のよい空間サービスを提供する。相手がだれであるかには関係なく、マニュアル化されたサービスが提供される。客はその不干渉に安心する。たとえば寝巻だろうが、薄汚かろうが、子供だろうが、それがなかったかのように無関心に対応される。たとえば女性が一人で食事をしやすい場所、マニュアル化された機械的な対応なのに(だからこそ)「街のほっとステーション」でありえる理由、それが人々がマクドナルドへ向かう理由である。
「なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070319
オブセッション(強迫観念)な「動機付け」
マクドナルド化への順応はとても受動的に見えるが、「動物化への欲望」は別の面を持っている。より能動的に「動物化」を求めると言う傾向である。たとえば最近では、「ウェブ進化論」などに見られるグーグルの「人間を介さずに全世界を編纂する」という夢に人々は熱狂する。
最近、人は豊かさの中で満たされ、欲望を失い「動物化」しているといわれていますが、そこには「動物化したい欲望」を隠しているだけではないか、と以前ボクはいいました。これは「機械論の欲望」ともいってのではないでしょうか。
近代以降、「機械論」はなぜ回帰するのか、という話があります。人間は機械であるというときには、その時代の最先端のテクノロジーによって説明されます。たとえば古くは機械仕掛けの時計であり、あるいはオートメーションラインであり、最近ではコンピューターであり、ネットです。これは、テクノロジーの発展が、人間身体を拡張する方向で発達するためだと言われます。だから新しいテクノロジー進歩のたびに、機械論は回帰してくるのです。グーグル的な「世界征服」は回帰する「機械論の欲望」の新バージョンでしょう。
そこにあるのは私であるが私でない「人間」というフロンティア(無垢)を征服したい欲望です。心身論における「身体」のように「機械」に還元できない(コントロールできない)「心」を抑圧するように現れます。先の産業革命後の大量生産ライン化における抑圧では、労働者を(機械のように扱う)過剰労働と搾取の構造が生まれました。今回の「ネットの欲望」では、たとえば素朴な世界の民主主義化の「強要」や、あまりに空間を超越し急激に短絡しずぎる反動としてのナショナリズムの台頭と対立を生んでいます。
さらに還元したいという欲望と残余としての「心」の対立において、還元したいという欲望そのものが残余としての「心」であるという「己の尻尾を食う蛇」のパラドクスがあります。ボクは、グーグルの「テクノロジーで世界を語り尽くす」という欲望は、テクノロジーで語り尽くせないだろう、と前述しました。
Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060214
動物化が「動機付け」を支えている
ここに共犯性を見いだすことができるように思う。先の「なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070319において、「マクドナルド化」の二面性(疎外か自由か)について言及した。
・疎外論としてのマクドナルド化(動物化論)
流動性への順応のために無個性な個体となる
リッツア「マクドナルド化する社会」(ISBN:4657994131)・・・消費の均質化、個性の喪失、従業員、客からの搾取・自由擁護論としてのマクドナルド化(ネオリベラル)
低コストで提供する
自由な時間、機会を与える
儀礼的無関心をとりこみ流動性を高めるシステム
個性的であるための無個性化
「マクドナルド化」を疎外論で語っても、これを止めるような流れを想像できないし、なによりも人々は、マクドナルド化を欲望している。フラット化を受動的に流れではなく、フラット化そのものが、動機付けになっている。まさにここにオブセッション(強迫観念)な「動機付け」がある。すなわち・疎外論としてのマクドナルド化(動物化)と自由擁護としてのマクドナルド化(オブセッション(強迫観念)な動機付け)の共犯性である。
ヘタレ化か、適応か
宮台はこのような傾向を「ヘタレ」と呼んだ。近代以降人々はこのように欲望を維持してきたのであり、情報化社会においてオブセッシブ(強迫的)になっているのかもしれない。
過剰流動的で万物が入れ替え可能な社会。したがって、そこにいるだけで自分の輪郭も位置もわからない社会。そういう社会に人は耐えられないのではないか。動物化しきれない人は「<世界>との接触」を渇望するのではないか。「動物化」が生じた社会では、突発的に全体性への危険な志向が生じる可能性がある−ウルトラマンのジャミラみたいに人間が怪物化して降臨する(宮台)
2ちゃんねらーの大半は「ズラす振る舞い」にオブセッシブ(強迫的)で、「ズラす自分から自覚的にズレる振る舞い」には鈍感です。自己適用を欠いたアイロニストを、僕は「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」と読んでいますが、三島が「高度のアイロニスト」だとすると、「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」とは、「低度のアイロニスト」だといえるでしょう。(宮台)
「ヘタレ化するポストモダン <なぜ「ヘタレ化するポストモダンなのか?」 その1>」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051029
たとえば下流、ネットカフェ難民、団地の一室での孤独者たちは、苦しみながらも、政治的に反発するわけでもなく、そのための言葉をもたないわけでもなく、その状況を自ら受け入れているという奇妙さがある。彼らは、他者から干渉されることを嫌い、個人主義を守り、そして動物化、フラット化、マクドナルド化、グローバル化、コンビニエンス化を欲望しているのである。
これが「ヘタレ」であるのか、一つの適応であるのか。ただこの(動物化した)沈黙そのものが「動機付け」を支えている/支えるために求められる。現代の「ネオリベラル的」なものの台頭の本質がここにあるのではないだろうか。
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