なぜ「社会のアーキテクチャー化」が進むのか

pikarrr2007-03-29

「社会のアーキテクチャー化」とは


「社会のアーキテクチャ化」とはなにかといえば、たとえばかつては犯罪をしてつかまると、犯罪ドラマにあるように警察につかまった時点で「物語」は終わり、犯人は観念し反省します。ここでは犯人自身にも自分が間違ったことをしていることが共有されています。

しかし実際はそこにで終わりではなく、裁判によって刑が確定するまで、罪になるかはわかりません。そして最近の米国の裁判のように優秀な弁護士をやとえば、殺人さえも無罪になる可能性もあります。あるいは、最近では少年法で短期で許されることに自覚的に犯罪をおこす少年にも現れています。

このような傾向は、金持ちが徳をするだけ、法の穴をつく卑怯な行為ということだけでは語れません。法は完全なものではなく、それを社会的な規範や、信頼関係で補完されるものでしかりません。そして規範や信頼というのは漠然としてみなこれが当たり前だろうという場の「空気」によって支えられています。

しかし社会的な流動性が高まり、規範や信頼の共有が危うくなる中で、もはやアーキテクチャに頼るしかない。そして法はみなに共有された絶対に正しい社会正義などではなく、誰かがつくった一つの社会設計(アーキテクチャ)であり、不完全なものであり、いつも古く、改革するべきものであることに自覚的になっているということです。

「社会のアーキテクチャー化」とは、法は正義であると素朴に信じられていたものが懐疑され、設計事項として剥き出しになり、それを知り、うまく活用したものが勝つということです。




ホリエモン裁判のアーキテクチャー化と反アーキテクチャー化の対立の構図


たとえばライブドア村上ファンド事件を考える場合にこのアーキテクチャ化を重要になるでしょう。日本の市場も法などによって設計され構造物です。そこには多くのグレイゾーンがあり、そこまでやってはいけないだろうというような信頼関係によって補完されています。そして彼らは、意図的にそのような信頼関係ではなく、アーキテクチャを利用したといえます。

このようなアーキテクチャー化は、アメリカのネオリベラル的な市場至上主義に一つの根を持ちます。信頼関係でも、国家による保護政策ではなく、市場のアーキテクチャーを重視した自由な競争を指向する。日本のバブル後の不景気の反動として、従来のアーキテクチャーの解体という構造改革ブームもこの流れにあり、ホリエモンや村上が時代の寵児であったのは、このような世界的な傾向を背景にして、従来の構造を解体する改革者として位置づけられ、彼ら自身も使命感を持っていたからです。

ホリエモン実刑判決への反応は二つに分かれました。「不当である」という意見には、同時期に裁かれた日興コーディアルの件と比較して、ホリエモン判決が実刑と厳しかった理由が、社会的な影響や裁判官への心象が悪いなどと曖昧であったことです。法は正義で、裁判官の裁きは法とともに人間として正しさを考慮して判断されるということであれば、裁判官の判断は正義として納得されるでしょうが、アーキテクチャ化」を重視すれば、裁判官の心象など単なる個人的な主観で「曖昧」なものでしかありません。

ここにアーキテクチャー化/反アーキテクチャー化の構図があります。ホリエモンが裁判で行いたかったのは、アメリカ式にいかに裁判というアーキテクチャーを優位に操作するかということでしょう。しかし「想定範囲外」?に、裁く側の司法自身がホリエモンが敵対する「反アーキテクチャな体制であった。ホリエモンアーキテクチャー化を重視すればするほどに、司法への反逆になるということです。そして今回の判決が、ホリエモンそのものだけではなく、規範的な面を重視された「社会のアーキテクチャー化」そのものへの警告であったことは否めないでしょう。




ネットはアークテクチャー化する


特にネット上でホリエモン裁判結果が不当であるとの意見が多かったのは、ネット住人はアーキテクチャー化の傾向が強いからでしょう。なぜネットでアーキテクチャー化が進むのかは、匿名が中心なネットでは、どこのだれかわからないものがコミュニケーションし、規範はみなが共有するような社会的なものではなく、村社会的な小さな場で働き、全体の秩序はプログラムによるセキュリティーなどのアーキテクチャーを重視することよるでしょう。アーキテクチャー化が進んだネットでは、裁判官であろうが、誰であろうが、規範、正義とは単なる個人的な主観でしかないということです。

たとえばひろゆきの裁判へのスタンスもアーキテクチャー化の一面でしょう。彼の主張は、現在の裁判制の不完全性であり、そのことに自覚的な行動です。




「社会のアーキテクチャ化」の潮流は止まらない


「社会のアーキテクチャ化」は、共産主義保護主義の失敗によって、世界的な市場主義の拡大というネオリベラルな潮流によって語られますが、その根底にあるのは情報化社会という不可逆的な方向性によると考えられます。だから文明の衝突イデオロギー対立よりも、根本的で止められない潮流ではないでしょうか。

だから「社会のアーキテクチャ化」イデオロギーではない。ネオリベラルな市場主義者が語る、市場が自由化されることで人々が幸福になるという思想は、アーキテクチャー化によって「人間を介さずに」共通の自由な社会設計を導入を目指すことですが、そのような理想とは関係がなく、アーキテクチャー化は進むと共に、設計は必ず不完全でしかありえず、その不完全性に自覚的で、活用するものが、徹底的に優位に働く構造があるということです。

そしてアーキテクチャー化した社会では、人々はこのようなことに自覚的です。こじつけぎみかもしれませんが、ブログで人気があるエントリーや最近の新書ブームなどに共通するのは、その道の専門家がわかりやすく、その分野のアーキテクチャーを解説するとともに、不完全性を暴露するようなものに人気が集まっているように気がします。そして彼らマスターは「想定済みだ。みんな抜け道を知りたいかい?」というのです。
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