なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか
「感情労働」時代の過酷
以下の「「感情労働」時代の過酷」の記事は現代の傾向を象徴しているのではないだろうか。
「感情労働」時代の過酷 (AERA:2007年06月04日号) http://www.asahi.com/job/special/TKY200706050068.html
看護の領域などで知られる、「感情労働」という言葉がある。「肉体労働」「頭脳労働」と並ぶ言葉で、人間を相手とするために高度な感情コントロールが必要とされる仕事をさすものだ。・・・平たく言えば、働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事のことだ。・・・そしてここにきて、この「感情労働」があらゆる職種に広がり始めている。
・・・「ひと相手の仕事は昔からあっただろうと、働く側の問題点を指摘する声もありますが、一概にそうではないと考えます。以前は、顧客が常連や顔なじみであることが多く、ある程度の親密さや信頼感がありましたが、今は気質も好みも分からない不特定多数の人を相手にしなければなりません。しかも瞬間芸的なスピードで、感情労働が求められています」
このような「感情労働」時代は、ボクが言及した社会の「アーキテクチャー化」と関係するだろう。
法は完全なものではなく、それを社会的な規範や、信頼関係で補完されるものでしかりません。そして規範や信頼というのは漠然としてみなこれが当たり前だろうという場の「空気」によって支えられています。
しかし社会的な流動性が高まり、規範や信頼の共有が危うくなる中で、もはやアーキテクチャに頼るしかない。そして法はみなに共有された絶対に正しい社会正義などではなく、誰かがつくった一つの社会設計(アーキテクチャ)であり、不完全なものであり、いつも古く、改革するべきものであることに自覚的になっているということです。
「社会のアーキテクチャー化」とは、法は正義であると素朴に信じられていたものが懐疑され、設計事項として剥き出しになり、それを知り、うまく活用したものが勝つということです。
なぜ「社会のアーキテクチャー化」が進むのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070329
社会の「設計事項」が剥き出しになると、先生と生徒、医者(看護婦)と患者などの、様々な道徳、習慣、地域的に支えられていた社会関係が、アーキテクチャーとして剥き出しになります。その設計事項をうまく活用したものが勝ちである、ということ、すなわち学校の先生、医者などは、教育する機械、医療する機械となる。こちらの要望を投げつけ、うまく処理してもらえればよい関係でしかなくなる。
しかし彼らは人間であるとともに、社会がアーキテクチャー化するからなおさら、失われつつある倫理観を過剰に担わされている。ここに大きなギャップが生じる。社会がアーキテクチャー化する中で、軋轢に「感情労働」は生まれていると言えるだろう。
どうしたら燃え尽きずに済むか
このような状況に対して、「個々の感情労働者は、どうしたら燃え尽きずに済むだろう」といくつかの案が示されている。
「個人の精神的な訓練も必要ですが、精神論では対処できないケースにも多く直面します。ですからつらい局面で、環境や感情を多角的に見る力がつけば、精神的に少し楽になれる。私の場合、それは言語化することでした」
「ポイントは、ストレスを内にためずに周囲に語れるシステムづくりです。そのためにはまず自分自身の傾向や状態を分析する力をつけ、職場内でストレスを吐き出せる環境整備が必要と考えました」
「時間内にやるべきことをしっかりやったら定時できっぱり仕事から離れ、後は趣味などで自分を満たすように言います。24時間、仕事に引きずられないための切り替えの訓練になりますし、他人の気持ちや不幸を受け止めるには、充実していないと続きません」
「ポイントは『当事者として巻き込まれないこと』です。患者からの感情的な意見や怒りを受け止める時、私個人ではなく、医師としての立ち位置を大事にしています。いわゆるメタの視点ですね」
「感情労働」時代の過酷 http://www.asahi.com/job/special/TKY200706050068.html
このような「人間を相手とするために高度な感情コントロールが必要とされる」傾向は単にある職業に関係するだけではなく、社会全体が「アーキテクチャー化」するなかで、人間関係が「感情労働」化しているといえる。そして人々はその軋轢の中で疲弊する。この疲弊から人々が「癒し」を求め、少女たちの「かわいい」、オタクの「萌え」の氾濫や、最近の「〜王子」へ熱狂する。*1
このために先の方法は、仕事上の軋轢への対処法というだけではなく、社会的な人間関係の対処法として読むこともできるだろう。すなわち人間関係に没入せずに、メタの視線を持ちつつ関係を結ぶ。たとえばオタクの由来はオタクが他者へ「おたくさ」と声をかけたことにあるとされるが、ここに冷めた人間関係を見ることができる。あるいは2ちゃねらーの会話では、「ネタにマジレスかっこ悪い」というメタ視線を忘れないことにある。彼らに先見性をみることができるだろう。
そして「マクドナルド化」が進む
そしてたとえば社会の流動化の大きな潮流の中で、アーキテクチャー化、感情労働化は、「マクドナルド化」と関係している。
マクドナルド化は儀礼的無関心という不干渉を積極的にとりこんだシステムであり、まなざしによる宙ずりを解放することで居心地のよい空間サービスを提供する。相手がだれであるかには関係なく、マニュアル化されたサービスが提供される。客はその不干渉に安心する。たとえば寝巻だろうが、薄汚かろうが、子供だろうが、それがなかったかのように無関心に対応される。たとえば女性が一人で食事をしやすい場所、マニュアル化された機械的な対応なのに(だからこそ)「街のほっとステーション」でありえる理由、それが人々がマクドナルドへ向かう理由である。
なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070319
そしてマクドナルド化は、アーキテクチャー化によって疲弊した人々が「ほっと」する場を提供するたけではなく、今後の社会が向かう方向性としてある。すなわち教育や医療などのサービスの「マクドナルド化」である。
教育で言えば、生徒の間違いはマニュアルによって対処される。すなわち教師は曖昧で過剰な道徳的なものまで責任を持たず、(塾講師のように)教科書的な知識を教える人としてマニュアル内にしか責任は持たない。それ以上の生徒の「間違い」は警察に処理してもらうことになるだろう。
このような対応は、社会にまだ倫理的なものがあるとと信じる人々から大きな反論を生むだろう。しかしこのような傾向はもはや避けられないように思う。たとえばこれを、少し前のイラクの人質事件の時に多くの人々が指示した「自己責任論」とつなげることは容易だろう。
そしてこのような関係がお金に関係することは容易に想像できるだろう。あいまいな価値観による軋轢が貨幣交換という関係により代替される。そこでは曖昧さは排除され、等価交換がめざされる。そしてサービスは貨幣にあわせたマニュアル化される。学校にクーラーを入れるか。金を払えば優秀な教師、空調完備がえられる。そして規則に反すれば、契約違反で排除される。市場原理の導入であり、ネオリベラルにつながる。
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*1:なぜ「かわいい」が氾濫するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061126