なぜ真のエコロジストは「外部を知る者」なのか

pikarrr2007-06-20

「外部無き者」


仮に人間の素の生命力を「1パワー」としよう。人間は道具を使う動物であると言われるように、人間にとって「技術」は根源的なものであり、特に近代以降の「科学技術」はこれを「100倍」にする驚異的な道具だ。エセエコロジスト、「外部無き者」の理屈は、「力を100倍にする科学はコントロールが難しい。この巨大な力は自然を破壊している。人間はこの力を抑制し、自然に優しくなければならない。」という。

この考えの間違いは、形而上学的な人間中心主義であるということだ。この根底には人間>>>自然という「驕り」がある。弱い自然を人間様は助けてあげなければならない、という勘違いである。なぜなら、自然のパワーは「1兆1千臆パワー」なのだ。「自然にやさいく」など人間ごときが何をいっているのか、なにを調子にのっているのか。科学の力が「100パワー」だろうが、自然にとっては屁のようなものだ。

仮にCO2濃度が上がって気温が上がっても、明日、地球が爆破しても、自然にはまったく関係がない。これは、「自然にとって」宇宙の隅っこのゴミのような地球ごときがどうなろうと自然には痛くもかゆくもないということ以上に、自然とは完全なる外部であり、人間との間にコミュニケーションは存在しない。人間が自然を破壊しようが、自然が人間を絶命させようが、そこにあるのはただ偶然性だけである。




「外部を知る者」


では「外部を知る者」、真のエコロジストは、どのように考えるか。この巨大な自然のパワー(外部)を知ることで、人間の無力さをしり、自然におののき、謙虚さを知る。そして自らの無力さを補完してくれる「科学技術」を尊ぶ。それによって、人間は生きることができるのだ。

それと並行して、内部の問題を考えなければならない。すなわち科学技術の倫理だ。人間の素の1パワーを100倍にする科学はうまく使わなければ、人間に負の力として働く可能性がある。これは決して自然に対してでなく、人間に対してである。自然が破壊されるのは、あくまで人間に必要な自然であり、いわば内部自然だ。すなわち環境問題とは、人間と科学技術の間の内部の問題なのだ。自然の偉大さをしり、科学技術の必要性を知り、それでいて人間が生きるためにいかに科学技術をコントロールするベキかを考えるのだ。




なぜ科学は進歩するのか


カール・ホパー の反証可能性「科学とはなにか」の学術的な一定義であるが、ボクがいう「科学技術」の定義にはなりえない。むしろボクは反証可能性を一つの「科学技術」の力であると考えている。科学技術が一方向性を持ち得たのは、反証可能性によるものだからだ。

一方向性とは、一般的に「進歩」と呼ばれるものである。歴史上において、進歩史観は新しいものである。「進歩」という考えそのものがなく、世界は変わらないと考えられるか、あるいはキリスト教のように終末思想が一般的であった。現代、ボクたちが持つ進歩史観(人間は進歩していく)は、近代以降の科学技術によって、技術が積み上げられていくイメージによって一般化した。

なぜ科学は進歩するのか。これは、伝達性と反証性による。どこかで発明されたものが、早く、的確に伝達され、他の場所で再現され検証される。ここに淘汰と蓄積が生まれ、科学は進歩する。科学がなぜ伝達性と反証性を持つのかは、特に数字を中心に論理的に表記されることで、秘技的な曖昧さが排除され、高速で的確に伝達され、再現される。すなわち「科学技術」とはこのような一つの運動として考えることができるだろう。




科学技術によって「歴史」は生まれた


たとえば原爆は進歩か。進歩とは、必ずしも人間に有用である、さらには人を幸福にするなどとはいえない。そこにあるのは、伝達量、再現数、蓄積量が増えるという事実であり、それが進歩の意味である。そしてそこに人は進歩史観を見る。ボクたちが「歴史」というとき、そこにはすでに進歩史観が前提とされている。「昔の人は大変だった。人は失敗をしながらもここまで進歩してきた。」というように「歴史」は語られる。すなわち科学技術の進歩史観によって、「歴史」は生まれたのだ。

ヘーゲル歴史観も同様なものが根底にあるだろう。そしてこの進歩史観の高揚の頂点が論理実証主義運動であった。現代では相対主義ポストモダンなどと言われて、その限界が知られているが、蓄積運動としての「科学技術」が進歩し続けているとは別であり、いまも「進歩」しているといえる。

ヘーゲル−コジェーブ−フクヤマと続く、歴史の終焉論は、イデオロギーにおいて様々に変形されるが、その根底にあるのは、人間の歴史とは「科学技術の発展」に行き着くということだろう。これは、ある意味で、人間は道具を使う動物である、ということに近い。




「外部を知る者」として綱渡り


環境問題も結局、さらなる科学技術の高度化によってしか乗りこえられないだろう。仮にこれに失敗して、科学文明が崩壊しても、人間は道具を使う動物なのであり、人間が存在する限り、再び科学文明への道を歩むだろう。

そしてこれは、壊れて空回りする人間像ではなく、そこには止まれば人は「外部」の波にさらわれるという事実がある。また内部である科学技術をうまくコントロールしなければ、内部破綻を起こすという問題がある。

人間の歴史はあまりに短い。自然史的にはつい最近登場したばかりだ。そして今後どれだけ生き残れるのかも危うい。だから「外部を知る者」として、この綱渡りを続けなければならないのだ。
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