「資本とネーションと、時々、国家」

pikarrr2007-06-15

考える名無しさん
市場主義の広がりで国家にしがみつこうとする弱者が国家の機能不全によって今度はネットにしがみつく、これからはネットが社会的紐帯としてのネーションの役割を担う、という理屈でいいのかい?

第三の波平
国家にしがみつくというよりも、地域コミュニティ、企業内コミュニティからネットコミュニティへの変化。ネーションはいつの時代も絶えず働くわけだから。

考える名無しさん
ネットの普及速度が速かったことが、ネーション=コミュニティの崩壊による要請によるもの、と言えることの事実的な根拠は何?

第三の波平
一番わかりやすいのはケータイでは?なぜケータイは爆発的に普及したのか。ここまで一気に普及するとは、製造側も予想されてなかった。いまネット端末として、PC使ったことがないケータイくんたちが増えているらしいし。

考える名無しさん
地域コミュティや企業内コミュニティが担保しているものが、ネットコミュニティ(そんなものがあるとして)に移行しているという主張の根拠は何?ネーションがいつの時代も動いていると言いたいならネーションが遷移していく起動因は何なの?

第三の波平
ここでいう「コミュニティ」とはどこに強く帰属意識を持つかと言うことだ。たとえば宮本武蔵の武蔵は、武蔵村の出身という説がある。昔は地域がアイデンティティをささえた。高度成長で、サラリーマンが英語を学ぶと、自己紹介では自らの仕事の説明をし、「my company」と言って外人を呆れさせる。電車男は、本音をネット上でさらけ出す。

起動因は複雑だ。複雑系の起動因は偶然しかないだろう。しかしこれでは宇宙論も進化論も入るので、話が大きすぎる。まあ、近代以降でいえば、科学技術の発達かな。

たとえば交通手段の進歩だけ考えてもわかるだろう。交通手段がないときは、人々は地域に縛られる。鉄道、自動車網が発達すれば、資本が拡散し、人々が地域から切り離され、流動する、転勤させられる。柄谷(マルクス)もいうように貨幣は外部と外部の境界に生まれるわけだから。

地域的な隣人が誰かしらない。「隣人」は地域でなく、企業内に見いだされる。その依存を企業は、企業戦士としての志気として活用する。さらに情報ネットが広がり、流動性が高まれば、企業も人を囲えない。企業のただの金儲け、地域に愛着もない。ネットコミュニティに繋がりをもとめて押し寄せる。

考える名無しさん
柄谷図式でいえば、現実世界は3元(資本とネーションと国家)から成るが、彼はオルタナティブとしてのアソシエーションを提出している、つまり3元の現状認識はその外部を持つという図式だけれど、ネーションの機能をネットに託すことで、現状肯定してるのか、代替体制を言いたいのか。

第三の波平
柄谷には外部がない

ボクは柄谷には外部がないと以前にいった。アソシエーションは外部を隠蔽すると。外部とはなにかというと自然なんだよね。人間界の外で人間にはコントロールできない自然。ベタには地震などが上げられるけど、簡単にいえば、この世界の偶然性。

人間はこの外部と戦い生存するために、文明を発達させてきたわけ。助け合いとしてのネーション、全体を統括する国家、物質的な生産・流通を管理する資本。これらは外部(偶然性)をコントロールし、内部に回収するためにあるわけ。

柄谷はアソシエーションを人類がまだ達成していないシステムであるが、あえていえば世界宗教のようなものと言っている。助け合いのの世界的なネットワーク。

宗教ってなにかといえば、外部を隠蔽する運動なんだよね。宗教では、自然を含めた偶然性が神とされるわけ。どういうことかというと、大地震がおこる。これは人間とは関係がない外部から起こって、人間を恐怖におとしいれる。これって怖いよね。だから人間はこの偶然性を神として擬人化して、仲間に引き入れて、天罰として人間の論理の延長線上でおこったこととするわけ。その人が悪いから天罰が下った、だから良いことをしましょう。これで安心することができる。なにをしても、ただ偶然的天災が起こるとしたら、もう恐怖だよね。

柄谷はアソシエーションでこれと同じ方法を使うわけ。そのポイントがカントの「物そのもの」とは他者であると、と言うわけ。「物そのもの」=外部=他者。柄谷は、この他者が超越的他者=神とは言わない。それだと宗教になるから。デリタ的な他者=偶然性の他者、どこかにいるだろう異国の他者、またはいつか存在するだろう未来の他者など。超越論的な他者。

この論理が微妙なんだ。結局、外部を擬人化、内部に引き込んで、偶然的な自然を消失させている。みんなが助け合うアソシエーション的な秩序世界が破綻するのは、人は絶えず外部(自然)にさらされて、助け合いだけでは生きていけるほど甘くはないという、とても当たり前の事実じゃないのかな。

資本の力を享受することへの補完としてネーション

ボクは、外部(自然)//内部(資本/国家/ネーション)の構造の中で、近代以降の科学技術の発達のいう一次元的方向性によって、内部がどのように変化するかを考えたい。外部は、宇宙論、進化論の領域で、短時間では変化しないから。ただ最近の遺伝子工学など、外部への影響を強めていることは別の問題としてあるけど。

科学技術の発展は、産業革命によって資本が力を持ち、またネーションが市民(平等)という力をもち、 国家の力は帝国主義などで一次的に強まったが、長期的に弱った。すなわち資本主義、リベラリズムへ向かう。これが物質的な豊かさという外部へと対抗策として有効であったから。

これはネーションの力を弱めることにもなる。助け合わなくても物質的豊かさによって、外部を防御できるから。すると資本の活性化を進める方向で進む。そしてネーションは外部への対抗手段ではなく、内部で資本の力が増殖するときに生まれる内部歪みを緩和効果するために必要とされるようになる。これがネットが「繋がりの社会性」などの自分探しの手段として用いられる理由。

一見、外部の問題と思われる「環境問題」だけど、「環境問題」はさまざまな駆け引きの場と化している、駆け引きとしてしか存在しない、という「内部」の問題。「環境問題」は、資本主導の内部に対する、ネーション側の反動の面が強いように思う。だからどこか信仰的で、ヒステリック。ただこれは、いまのグローバリズムの流れを否定するものではない。あくまで、資本の力が強くなりすぎることへの注意でしかない。

資本の力が強くなることへの反動、資本の力を了承することへの補完として、国家の「小さな国家」化とともに、今後ますますネット上のネーションの運動は重要であり続けるように思う。外部への有効な対抗手段、様々な問題解決集団は資本によるもの(アーキテクチャー化、マクドナルド化、コンビニエンス化)しかないように思う。そこに生まれる歪み、過剰を緩和、補完するためにネーションとしてのネットが重要になる。現状肯定と言われればそうなのかな・・・

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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板「資本とネーションと、時々、国家」http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1173442180/からの抜粋です。内容は一部修正しています。

*2:画像元 http://www.netmuseum.co.jp/kinshachi/kinp4-1.html