なぜ情報化社会にマルクスの亡霊が回帰するのか

pikarrr2007-07-27

マルクスの亡霊がうろついている


マルクス唯物史観にある、生産、交通様式が上部構造を規定するという考えはある種の説得力をもつだろう。特にマルクスの時代の機械論が隆起した高揚の時代にはそうだった。しかしその後、違和感をもつことになるのは、生産様式もひとつの次元でしかないということである。たとえば構造主義では言語、すなわち欲望が下部構造におかれる。その典型がボードリヤールの消費論である。差異の体系によるシュミラークルな消費社会が先導する。

しかし情報社会において、再び、マルクスの亡霊がうろついている。インターネットなどの情報技術の発展の中で、下部構造としてのグローバルリズム、これはフラット化、帝国、環境管理、グーグルなど冷たいネットワークとして語られる。ここに唯物史観の本質があるのではないだろうか。唯物史観は一つのパラダイムシフトに対する期待への高揚感である。この高揚感は「機械論への欲望」である。

近代以降、「機械論」はなぜ回帰するのか、という話があります。人間は機械であるというときには、その時代の最先端のテクノロジーによって説明されます。たとえば古くは機械仕掛けの時計であり、あるいはオートメーションラインであり、最近ではコンピューターであり、ネットです。これは、テクノロジーの発展が、人間身体を拡張する方向で発達するためだと言われます。だから新しいテクノロジー進歩のたびに、機械論は回帰してくるのです。グーグル的な「世界征服」は回帰する「機械論の欲望」の新バージョンでしょう。


Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060214




サヨクを挫く「命がけの飛躍」


サヨク主知主義と言われるように、人々(特に知識人)がサヨクを欲望するのは、社会を設計することにある。現状の構造を徹底的に暴露して、それをよりよく再構築する。まさに最高の知的ゲームである。

このような象徴化において問題にあるのが、大文字の他者の他者は存在しない」ということだ。象徴的なシステムの正しさを保証する上位の象徴界は存在しない。だから最後は「神」にゆだねるしかない。現在において「神は死に」否定神学として生き残っている。

たとえば否定神学の基本に、柄谷の「命がけの飛躍」がある。異国の他者がはじめて出会うときに、いかにコミュニケーション(交換)が可能であるか。それは論理的には説明できない、何らかの跳びこえが必要である。柄谷は、ヴィトゲンシュタインははじめてのコミュニケーションにそしてマルクスははじめての交換に、共通項としてこの場面を見いだした。




「せき立て」


このような否定神学を乗りこえ方法は、「速度」に求められる。たとえば異国の他者と他者が出会うときに、この緊張の場面でとにかくなにかを言わなければならない。それが時間的な適当な「せき立て」である。

たとえばこの「命がけの飛躍」人工知能の不可能性である「フレーム問題」に繋がる。これに関する問題として「中国人の部屋」の問題がある。そこでも問題になったのが、「せき立て」であったのは、偶然ではない。

ラカンは、「囚人のゲーム」*1「せき立て」論の中で、3人の囚人が「せき立て」られ、解を得る瞬間に「命がけの飛躍」現実界)を見いだす。しかしこのラカンの言説はあまりに一点に向けて、集約されすぎる。実際に、このような場面があれば、人は「せき立て」の中でもっといい加減に振い、「命がけの飛躍」現実界)へ集約されないだろう。異国の他者と他者が出会うときに、無数に考えられるフレームの中で、正解を見いだせず「せき立て」の中で、適当にふるまい、間違うことがフリーズは回避される。




「計算不可能性を設計する」


ここにあるのは、人の認知限界と応答速度の関係である。人は人工知能ほどに計算速度が速くない=「かしこくない」。もっといい加減である。ここに否定神学の乗りこえの可能性がある。否定神学を論理的に乗りこえなくても、速度によって乗りこえられる。

たとえばアマゾンの提案システムを考えると、私がいまほんとうの求めている本を提案できない、ということになる。しかし「いま本当に求めている本」そのものが否定神学である。しかしアマゾンはデータベースから、次々にそれなりに提案する。次々というその「速度」によって、人は「いま本当に求めている本」を提案されたような気がして、満足する。

情報化技術(環境管理)は認知限界を利用して、それなりの回答を与えることができる。完全な回答はいらない。ただ人が充足すればよい。ここに新たな、サヨク的、主知主義的な、社会という「計算不可能性を設計する(宮台)」可能性=知的ゲームが生まれる。




小さなエゴに左右される「帝国」


このような情報化技術に根ざした新たな主知主義は、光速の信号が世界中を飛び回るような、最近の、グローバル化、フラット化、「帝国」といわれる冷たい世界のイメージにつながる。しかしそれほど簡単だろうか。

たとえば有名なローレンス・レッシグ「CODE」ISBN:4881359932)で語った4つの人を動かす力、「法律・市場・アーキテクチャ・規範」において語られないものがある。それは「想像的な」力である。想像的な力とは、(大文字の他者のような)規範に近いが、より身近な「この他者」との関係によって生まれる。必ずしも社会性を勝ち得てないが、この人(たち)との関係を崩したくない、というような力である。このような力は現在において、社会的に身近な人々よりもむしろネット上において働いている。

たとえばグーグルなど、情報化社会においては、ある一局に力が集中する傾向があるとして、そこに「想像的な」力が働くとどのようになるだろうか。「小さなエゴ」によって、社会システムが過敏に反応してしまうようなことが、おこるだろう。

たとえば、市場主義から生まれる格差社会とは、ほんとうに自由で平等な競争の結果だろうか。パラダイムシフトに基づく主知主義的な理想論への高揚感の裏で、一部の勝ち組の「小さなエゴ」によって、勝ち組に優位に設計され、固定化されているのではないだろうか。それがかつてマルクス主義の理想から立ち上がった多くの国家におこったことでもあっただろう。
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*1:「エクリ」 ISBN:4335650043「論理的時間と予期される確実性の断言」

*2:画像元 http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200601201135135