なぜウェブは資本主義を超えないのか
「なぜウェブは資本主義を超えるのか」
池田信夫氏のインタビュー「なぜウェブは資本主義を超えるのか」http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Interview/20070802/278983/は面白い。*1ここで重要なことは「ムーアの法則」でしょう。インターネットが成功しているのは、資源が無限にあることで、「ユートピア」が実現されている。
さらには、情報が溢れるように提供された時,相対的に希少になるのは、情報が消費するもの,すなわち「人間の関心」である。そして関心を取り合うことで、ネット上の経済は活発化している。「Googleの検索広告はその典型です。世の中に何十億もページがある中で,自分のページを見てもらうために1クリックいくらで費用を払う。(池田)」ということです。
「書き込みは必ず宛先に届く」
たとえば、ネット上にテクストを書くことによって他者に見られるということですが、ここはラカンのテーゼ「手紙は必ず宛先に届く」の一つの解釈あります。
書くということで自分を客観視できますが、この客観視のいうのは、自らを他者としてみるということ、ヘーゲル的な対自即自です。そしてこの他者とは自らであるとともに、「大文字の他者」です。すなわちそこには他者の承認があります。
これは誰にも見せない日記でも同じです。日記は必ず(大文字の)他者へ向かって書かれます。そしてそこで承認されることによって、自らの中でどこにもいかなかった、抑圧されたものが少し緩和されます。
そしてネット上は、日記などに比べてこのようなまなざしの他者を捏造しやすい場所です。ネット初期には、ネットになにかを公開するだけで、「世界中から見ることができる」と言われました。さすがにいまはそこまでのんきなことはいいませんが、可能性としては開かれているというとてもドグマティックな場所です。ネットは冷たいネットワークシステムのイメージで語られますが、このようなドクマが巣くう場所であることを考えないといけません。ネット上のメディアがホームページ、ブログ、mixiと日記形式であることは、まさに象徴的です。
資本主義の超越論性
ネットの成功には、「人間の関心」が重要というときには、他者の関心が重要になります。まさに、「世の中に何十億もページがある中で,(他者に)自分のページを見てもらう」ということです。
そしてこの「人間の関心」の重要性はネットの特徴というよりも、資本主義そのものの特徴ではないでしょうか。「私的な欲望や財産権を肯定することが「近代化」なのだ(池田)」というときに、欲望とはまさに、「人間の関心」です。
マルクスのいう商品の物神性、なぜ商品は価値をもつのか、を考えるときに、人々がほしがるから価値をもつ、価値を持つから人々が欲しがる、というパラドクスがあります。同様な使用価値をもつ安いバックはたくさんあるにもかかわらず、なぜシャネルのバックは人気があるのか。シャネルがみんなに人気があるから価値がある、そして価値があるから人気がある。ということです。
資本主義の正常な作動においては、産業革命による大量生産だけではダメで、それを大量消費すること必要です。そして大量消費を可能にしているのは、必要だからほしいを超えていく、終わりのない欲望、すなわち「人間の関心」という超越論性です。まさにこれこそが、資本主義の基本原理です。
そして、「ムーアの法則」によって、情報が溢れることで、ネットにおいてより傾向が加速しているということでしょう。さらにいえば、「ムーアの法則」でさえも、下部構造ということはできません。「ムーアの法則」による生産には、それに対応する消費(欲望)があります。
「解離的近代の二層構造論」
東浩紀の「解離的近代の二層構造論」(http://www.hirokiazuma.com/archives/000194.html)*2、価値中立的なインフラ/アーキテクチャ(市場)の層と、価値志向的なコミュニティ(共同体)の層が意味するものは、「ムーアの法則」によって情報が溢れることと、「人の関心」を消費(欲望)することが、解離していることを表しています。
「私的な欲望や財産権を肯定することが「近代化」なのだ」と言う意味で、近代の祖、デカルトの心身二元論に対応しています。生産性の加速的な構造とそれを消費する欲望の加速は資本主義において相補的な運動であるとともに、また加速されることで、解離しています。そしてその傾向は、ネットにおいてより顕著になっているということです。
たとえば「主権国家(領土国家)は,17世紀にできたもので,ほぼ資本主義と同時に誕生した制度(池田)」であると、想像の共同体であることを強調し、また現にネオリベラル化によって「小さな国家」化が進んおり、情報化社会、グローバリズムでは国家の重要性が低下すると言われる反面、反してネーションとそしてナショナリズムが台頭するという逆説がおこっています。そしてこれらの一見、解離した現象は、互いに相補的であるということです。
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*1:参考 「なぜネットはリバタリアン化するのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070708
*2:参考 [批評]東浩紀の「ポストモダンの二重構造」とその限界 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060117