なぜ若者は車を買わないのか
若者の所有欲は減退しているのか
20代の若者の所有欲そのものが減退しているという不思議な現象
日本経済新聞社が首都圏に住む20代、30代の若者(20代1207人、30代530人)を対象に実施したアンケート調査の結果、車を買わず、酒もあまり飲まない一方、休日は自宅で過ごし、無駄な支出を嫌い、貯蓄意欲は高いという、予想以上に堅実で慎ましい暮らしぶりが浮き彫りになりました。
これは、ほんとうに若者の所有欲が減退しているということだろうか。自らがはまる対象へはいまもお金を払っているのではないだろうか。では、車を買わず、酒もあまり飲まないとはなにを表すのだろうか。
資本主義社会は「ひきこもりながら」生きることがめざす
ボクは現代人の傾向、動物化した主体のキーワードは、「ひきこもる」という行為にある。そして「ひきこもりながら」の行為を可能にするのは、「なんでもお金で買える」資本主義システムによっている、といった。
消費により承認される動物化した主体は、商品の激しい変容に対して、「他者」を見失わないように、いまなにが人気であるか、たえずアクセスしつづけなければならない強迫状態におかれる。しかし実質的には現前の他者とコミュニケートする必要がなく、自己充足し、社会から退却しているようにみえるだろう。
だから「ひきこもる」という行為は動物化した主体のキーワードになる。これは家からでられない俗に言う「引きこもり」よりももっと広義な意味である。たとえば恋人でもセフレでもよいが、「ふたりぼっち」で「ひきこもる」、あるいは、まさに「引きこもり」や独身女性の「パラサイトシングル」のように、家族というカプセルに「ひきこもる」。
たとえば以前の男性と女性がつきあう場合には、家族や友人などへの社会的関係、責任がついてきたのに対して、「ひきこもる」という行為は、このような責任を問うような「現前の他者」は煩わしく、恐怖であるというように回避される。
・・・様々な行為を「ひきこもりながら」可能にするのは、「なんでもお金で買える」資本主義システムによっているのである。いかに社会的な責任を回避しながら、「ひきこもりながら」安定した収入をえるか。それがまさに、動物化した主体にとっての今後のもっとも大きな課題であるとともに、資本主義が発展するために乗りこえなければならない最大の課題であるだろう。
なぜ資本主義社会では「ひきこもりながら」生きることがめざされるのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070830
車の所有はやや(責任が)重たい
車を持つということはとても社会的な行為である。当然だが、運転には交通マナーを守らなければならない。自転車や歩行に比べて法令が厳しいだけでなく、譲り合いなどのマナーを守ることが命に関わる。さらに、維持にはお金と労力がかかる。
かつては、車を持つことが始めの「独り立ち」だった。車−彼女−結婚−子供−マイホーム・・・という高度成長的なアットホームな夢が描かれていた。車は小さな城であり、そこに女性を乗せることは、前家庭的である。ヤンキーが早期結婚、子持ちを歩むのはこのようなことも影響するのではないだろうか。彼らは、反社会的に見えても、とても社会的な存在なのだろう。
車への所有欲の低下は、このような車をまつわる社会性からの退避ではないだろうか。「ひきこもりながら」生きるには、車の所有はやや(責任が)重たい。しかしこれは所有欲全般の低下を意味しないだろう。再度言えば、「様々な行為を「ひきこもりながら」可能にするのは、「なんでもお金で買える」資本主義システムによっているのである。」若者が求めているのは「ひきこもりながら」の消費である。