なぜお金がすべてなのか(仮) その2 貨幣への負債感

pikarrr2007-09-30

現実の貨幣交換はどこまで純粋か


「交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。(中野)」というとき、現実の貨幣による等価交換はどこまで負債感の持続時間がゼロである純粋な交換でだろうか。

たとえばある電化製品を買った。しかしそれは期待したような特性を満たしていなかった。それは不良ということではなく、消費者が勝手に期待したものであり、製造メーカーにクレームを言うものではない。たとえば人はブランドへの信用で商品を買う場合にこのようなことが起こる。ソニーの製品だから期待して買ったのに・・・。

ここでは貨幣による等価交換が行われているが、負債感の持続時間がゼロである純粋な交換とはいえない。ブランドとは、信用という形で負債感を引き受けることを意味する。だから消費者はブランド品を好むのである。すなわちどのような等価交換であっても、相手が誰であるかという期待があり、贈与性が完全に解消されることはないだろう。




マルクス貨幣論


マルクスは等価交換を「暗闇への飛躍」と呼んだように、交換は奇跡的な行為である。たとえばAという対象を持っている人とBという対象を持っている人が出会い、交換するためには、Aという対象を持っている人がBという対象を望み、Bという対象を持っている人がAというう対象を望んでいなければならないという「奇跡的な出会い」が必要である。

貨幣はこれらの間を結ぶ位置にいる。Aという対象を持っている人もBという対象を持っている人もまず貨幣と交換することで、等価交換を容易にする。貨幣を持つと言うことは商品に対して優位な位置にたつことを意味する。

さらには交換では、AとBというまったく共通項のない対象の間に、どのように等価を決定するのか、という問題がある。対象の価値とは交換されることで事後的にしか決まらないものであるからだ。そしてここでも貨幣は優位な位置をもつ。商品は貨幣と交換されることで初めて価値を持つのである。

商品を売る人は売ってもらうのであり、貨幣で買う人は買ってあげるという非対称な関係が生まれる。資本家は労働者から労働力を買ってあげ、労働者は労働力を買ってあげるという非対称性にマルクスは搾取の基底をみた。消費でいえば、消費者は商品を買ってあげる。資本家は商品を買ってもらうという非対称である。




ラカン的贈与論


交換をラカンにつなげることができるだろう。先の互酬性(贈与と返礼)では、以下のような関係で整理される。

原始社会では、自然のめぐみ、脅威という不確実性を生きる。人は不確実であることを受け止めることはできない。このために自然を神という交換可能な(超越的な)他者とし、不確実性を負債とする。不確実性には(交換)コミュニケーションは存在しないが、負債とはいつかは返礼できる。そこに交換関係が成立している、ように振る舞う。

自然のめぐみは神からの褒美であり、脅威は怒りというメッセージである。それを受け止めて適切に返答することで、自然をコントロールする。話しかけてもコミュニケーションが成立しない力とはなんと脅威であろうか。話せば分かることで人は安心する。

現実界(不確実性)=純粋贈与(略奪)、自然のめぐみ、脅威→外傷的

想像界(神的なものへの期待)=外傷をさけるために、神を想定し、贈与(交換=コミュニケーション)が可能ないよに振るまう→神(自然)に対して人は負債を負う→交換に贈与性(神への贈与)を混入し負債を返礼する。

象徴界(社会的な構造化)=互酬性(贈与の儀礼化)




ラカン貨幣論


異なる対象を等価に交換することは、「暗闇の飛躍」であり、不確実である。なににおいて等価とするのだろう。そこには絶えず、闘争(略奪)の可能性がある。そこに絶対的な価値観としての貨幣を媒介する。貨幣価値化されたものは絶対的なものであり、従うしかないと考えられる。

貨幣価値は交換価値として市場で決定されると思われているが、それも一つの神話である。たとえばメーカーは市場に出回る前に価格を決定する。ここにはマルクスのいうような労働時間(人件費)など加工費は考慮されるが、最終的にはこの商品ならこれぐらいかな、という戦略的、偶然的に決定される。だから貨幣は神の位置にいる。資本家と労働者の非対称性であり、お客様は神様なのである。

現実界(不確実性)=純粋等価交換(負債感の持続時間がゼロ)→利害による闘争(略奪)の可能性

想像界(神的なものへの期待)=闘争(略奪)をさけるために、神(貨幣という絶対的な価値)を想定し、等価交換(交換=コミュニケーション)が可能ないよに振るまう→貨幣に対して人は負債を負う(買ってもらう立場)、貨幣を持つ者は神様→交換に贈与性(貨幣への返礼)を混入し負債を返礼する。売るときに返礼が働く。

象徴界(社会的な構造化)=貨幣交換(貨幣交換の儀礼化)

だから貨幣交換は負債感の持続時間がゼロであり、心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるようなものではない。交換関係が成立しているように振るまうことで、人は貨幣に対して負債をおう。売る立場は負債感をもつ。たとえば先のブランド戦略とは、売る立場が等価交換以上のもの(信頼=贈与性)を提供するという意味を持つだろう。




稀少品の優位性


「なんでも鑑定団」をたまにみるがあのおもしろさはなんだろう。ある鑑定対象に対して、二つの物語が語られる。ひとつは依頼者の鑑定対象への思い入れの物語である。先祖からの言い伝え、友人からの贈り物などなど。もう一つは対象そのものの物語である。どのような時代にどのように生まれたのか。

そして最後に、プロにより価格が査定される。父の形見、一族の尊厳、作者の生死をかけた作品など感動的な物語であっても、物語と断絶したところで価格が決定される。貨幣のもつ価値制定の力の場面がある。

だから商品を売る立場は、その商品の信頼性、それはまさに売る人の信頼性をPRしなければならない。そこには貨幣という商品はなにによって保証されているのか、ということも問われるはずが、その問いは隠されている。貨幣はいつも絶対的な位置にいるのである。

しかし商品が十分多くなく、商品が希少なものである場合、逆に売る立場は強い位置にくるのではないだろうか。だが売る立場が強い位置にくるのはあくまで貨幣による価値査定の後でる。稀少品もまず貨幣価値化されなければ、価値を持たない。希少商品は希少であるから価値であるのではなく、「貨幣」が稀少であると認めることで価値を持つのであり、価値を認めなければ、どのような物語があっても、私的に思い入れがあっても価値を持たない。稀少品を売る立場の強さは貨幣に従属したものでしかない。(つづく)
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