なぜお金がすべてなのか(仮) その3 科学技術−国家(法)−貨幣

pikarrr2007-10-01

生存を保障したものとしての「神」


不確実性としての外部を隠蔽し儀礼的に調停するところに「神」は生まれ、人は負債感をもち、従う。このようなラカン的象徴化装置において、贈与も貨幣も説明されるが、この装置は汎用的である。たとえば君主や国家も同様の構造にある。さらには、これはとてもよくある構造である。浜崎あゆみだろうが、カリスマとはいままでにない外部を調停したものとして登場し、ファンは「いろんなモノをもらった」と負債を負うことで崇める。

すると問題はどこに不確実性としての外部を「見いだす」か、ということになる。重要な点は外部は客観的に存在するのではなく、人々が脅威であると「見いだす」ことであらわれる。

贈与も貨幣も君主も国家も浜崎あゆみも、外部を調整することで外部を作りだすという、循環論に陥る。それを断ち切るのは「生存」ではないだろうか。結局のところ生存を保障することで、その時代の「神」は選ばれる。

アガンベンはシュミットを引用し、「主権者とは例外状態につ いて決定する者である。」と言ったが、ここでいう選ばれた「神」とは、誰が「例外状態」(外部と内部の境界)を調停したのか、が問題となるだろう。




贈与交換の強さ、貨幣交換の弱さ


原始社会において、自然が脅威であったとき、共同体と自然との関係には、自然という「神」への贈与に向かうしかない。そして贈与における負債感の持続が人の繋がりを作る。だから基本的に贈与は身近な共同体の中で行われる。これは共同体内の贈与交換に信用を与え、略奪(闘争)を排除するような繋がりの「強度」があるだろう。それとともに共同体と共同体の間では、略奪(戦争)が繰り返されてきただろう。

近代において、自然の脅威が科学技術によって、管理され、自然の脅威を調停する贈与関係の繋がりは希薄化する。ここにホッブズ的な自然状態(略奪)が生まれる。ここでは、貨幣交換が全面化することは難しいだろう。なぜなら貨幣交換は、負債感を生じにくく、貸し借りの感情が相殺されるやすく、繋がりの強度を生みにくい、繊細で弱いシステムであるからだ。

だから柄谷がいうように帝国主義において、植民地として略奪が行われたのは、等価交換などというめんどくさいものよりも、略奪が行われた。そしてこの等価交換という脆弱な行為を成立させるためには、国家権力が必要とされた。




科学技術−国家(法)−貨幣


柄谷は国家の設立の条件に、破壊力をもった火器の発明と商品経済の浸透をあげた。科学技術と世界経済が権力の独占を可能にすることで、国家は可能になった。すなわち、科学技術と国家と商品交換は相補的に発展し、「近代世界システムを形成したということだ。科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の非対称性によって市場へ流入する。これらの運用を国家権力が補強する。

国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並行的に成立する。一つの共同体が他の多数の共同体を支配するようになるとき、多数の共同体の間で生産物の交換が無事に行われるようになる。商品交換は人類史の早期段階からはじまったが、近代国家と市場経済が確立されるまで従属的・補足的である。

絶対主義王権国家は、王がこれまで王と並び立っていた多数の封建諸侯を制圧し、また教会の支配権を奪うことで成立する。これを可能にしたのが、破壊力をもった火器の発明と商品経済の浸透である。火器は・・・国家が暴力の独占に存する。商業や交易は帝国によって管理独占され、商品交換は他の交換様式を上回ることはできないかったが、絶対主義王権は商品交換の原理を全面的に受け入れる。

主権は1国だけでは存在しない、他の国家の承認によって存在する。西ヨーロッパにおける絶対主義国家(主権者)の誕生は、帝国や部族国家を主権国家として再組織し、世界的に主権国家を生み出す。また資本主義的市場経済も1国だけで考えることはできない。いったん世界市場=世界経済が成立すると誰も外部にあることはできない

絶対主義王権国家は、明かな略取−再配分をもっていいたが、市民革命以後の国家では、国民が義務として自発的に納税し再配分するため、国家は国民によって選ばれた政府と同じにみなされる。しかし国家は政府と別のものであり、国民の意思から独立した意志を持っている。国家は戦争においてあらわれる。


「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903

(つづく)