なぜお金がすべてなのか(仮) その4 貨幣交換世界の正当性

pikarrr2007-10-02

経済学的貨幣交換世界はどこにあるのだろうか

古典派ないし新古典派経済学においては、純粋状態とも呼べる経済システム像が構想された。すなわち経済主体とは自律的「個人」であり、そうした個人が「利己心」をもって「市場」で取引をするなかで「神の見えざる手」(スミス)の力によって、需要と供給の「均衡」がもたらされた。「需要」はそれをちょうど均衡するだけの「供給」を生み出した(セーの法則)。財市場だけでなく、貨幣市場や労働市場でも、つまりすべての市場で同時に均衡した(ワルラス一般均衡理論)。個人は「商品」あるいは「財」について「効用」をもち、自分の効用を最大化に関して、「合理的」に行動し、市場の均衡点においてその集積である「社会的厚生」が最大化された(特にピグー厚生経済学)−。

こうした市場について考え方は、まず基本的に、快楽の量は計算可能であるとするベンサム功利主義思想に基づいているといえる。こうした「快感計算」の不可能性や「合理的人間」という仮定が非現実的であることから、こうした諸々の仮定を批判したり、経済学理論全体の有効性を疑問視したりする向きもある。また第二に、過去の状態が現在を決定し、現在の状態が未来を決定するという<機械論>の考え方がベースにあると言える。


中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P33-32

こうした経済学的世界では、「負債感は生じない」完全な交換が基本とされるだろう。しかしこのような経済学的貨幣交換世界はどこにあるのだろうか。

経済学の基本である効用を求める合理的な主体は消費者であるより、生産者に適応する。これは公共的と私的に関係する。人は生産的な場面、すなわち労働の側面において公共的に振るまい、消費において私的に振るまいやすいからである。そして経済学的合理性を公共的なものとする考えそのものが近代におけるものであり、資本主義社会において制定され、目指されるイデオロギー(科学技術−国家(法)−貨幣)を表している。




「科学技術−国家(法)−貨幣」の正当性


科学技術は自然(労働力も含む)を解体することで資源化する。そこに時間的、空間的差異を生み出す。そして貨幣の非対称性によって、貨幣価値し市場に流し込む。これらの運用を国家権力が補強する。

マルクスは資本家が(特別)剰余価値を生み出すために、技術革新は必要とされる、といったことに対応するようであるが、科学技術−国家(法)−貨幣は相補的に利益を生むだけでなく、「例外状態」を制定することで、正当化される。正当化とは、生存を保証することで、神の位置に立ち、人々に負債感を与え続けているのだ。

人々は貨幣に対して負債感をえる。たとえば労働者は労働力を企業を売る時、等価交換であるはずが、有り難み(贈与性)を感じ、社長など経営陣は貨幣を与える者として、神格化される。あるいは、市民は国家(お上)に対して負債感をえる。




例外状態で浮上する贈与関係


ただ人々の「感染」はただ貨幣にだけむかっているわけではない。いまも、科学技術−国家(法)−貨幣の下で、贈与関係の強度は社会を支えている。これは、柄谷的には「ネーション」ということになるが、贈与的な人の繋がりは家族、地域、あるいは人類愛のような様々な大小の領域で基底として働いている。それは、贈与関係の強度が、いまも有用であり続けるからだ。

「想像の共同体」ベネディクト・アンダーソン。18世紀西洋におけるネーションの発生。啓蒙主義、合理主義的世界観の支配の中で宗教的思考様式が衰退したところ、ネーションは宗教にかわって、個々人に不死性・永遠性を与え、その存在に意味を与える。

ネーションは、商品交換の経済によって解体されていった共同体の「想像的」な回復する。ネーションは、資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補充され解消される互酬的な共同体である。


「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903

それが明らかになるのもまた例外状態においてである。たとえばアメリカの大震災やハリケーンの大災害などに顕著であったが、電気の不通など科学技術が有効でなく、国家(法)による援助も不十分で、ましてや貨幣が機能していない例外状態、無法地帯では略奪が発生する。そしてだからこそ、自衛的な贈与関係が現れる。日本の震災などで、地域的な繋がり、あるいはボランティアなどの人々の助けあいが浮上してくる。

それはまた、逆説的に、正常状態における科学技術−国家(法)−貨幣の強力さを示すだろう。
(つづく)
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