「なぜお金はすべてなのか」Q&A その2 貨幣の贈与性

pikarrr2007-10-10



「[まとめ]なぜお金はすべてなのか 純粋贈与と、贈与と、交換(全体)」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004への反響が広がっています。「なぜお金がすべてなのか」という題名が受けたのかと思っいましたが、内容へのそれなり反響があったようで、はてな住人も捨てたものではないのかもしれません(笑)。引き続き、質問に答えてみましょう。より難解で、核心的な部分です。

Q:貨幣交換に贈与性を導入するとはどういうことか




①贈与(交換)と贈与性


ボクは「贈与(交換)」「贈与性」を分けている。中野はレヴィ=ストロース的な象徴的贈与と、モース的な想像的贈与と呼ぶような違いを指摘している。

モースはこの論文(「贈与論」)の冒頭で、「未開あるいは太古の社会類型において、贈り物を受けた場合に、その返礼を義務づける法的経済的規則はいかなるものであるか、贈られて物にはいかなる力があって、受贈者にその返礼をなさしめるのか」という問いに照準をあわせる。

モースはまず、提供・受容・返礼という義務、そしてそれを命ずる贈答規則−<贈与は必ず返礼を伴う>−を、人類学的・博物史的事例から抽出する。そしてそのうえで、この贈与の回路を永続化させる<力>、贈与規則それ自体を創出する呪術的な<力>を見いだす。

レヴィ=ストロースの批判点は、モースは交換のシステムという一つの象徴システムをせっかく摘出しかかったのに、最終的には情緒的・神秘的な回答に落ち着いてしまったという点にある。ラカン用語で言い換えれば、モースは象徴界の理論をうち立てようとして、最後の一点で想像界に足を取られた、といったところがろうか。


中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P126-131

レヴィ=ストロース的な象徴的贈与とは、まさに構造主義である。一般的に「贈与(交換)」という場合には、構造化された象徴的な関係をいうだろう。たとえば柄谷は、カール・ポランニーを参照に、交通様式を交換、再配分、互酬性(贈与と返礼)に分けているが、ここでいう互酬性(贈与と返礼)も同様である。

交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられています。そえは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交換は、交換一般の中ではむしろわずかの部分でしかありません。たとえばマルクスは商品交換が共同体と共同体の間で成立するということを強調しました。では、共同体の中では交換がないか、といえば、そんなことはない。商品交換とはちがった交換の原理がある。それが贈与と返礼という互酬である。


柄谷行人 「世界共和国へ」ISBN:4004310016)P21




②贈与性=負債感


それに対して、モース的な想像的贈与は「交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感(中野)」である。ボクは「贈与(交換)」と分けて、この想像的な贈与、「贈与(交換)」を生み出すような負債感を「贈与性」と呼んだ。

ラカンにおいて、象徴界とは社会的な規律、習慣である。それに対して想像界とは、対面的な他者との関係性である。「鏡像関係」で説明されるように人は現前の他者に対して、鏡像的に自らを投影しようとする。人は鏡像的な関係によってしか、自らを見いだすことができないからである。

そこには「贈与は贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者になるということは、相手の上位にたつ」ような緊張関係が存在する。このような意味で、贈与性は人と人の間でたえずはたらく想像的な引力としてあるのだ。




③互酬は共同体の中で成立する


先に示したように、柄谷がマルクスを引いて言った「商品交換は共同体と共同体の間で成立する、互酬(贈与と返礼)は共同体の中で成立する」とは、どのような意味だろうか。これはまさに「贈与性」=負債感によって説明されるだろう。

たとえばしょうゆをきらしたのでお隣さんにちょっとかりに行くと時、しょうゆをもらうとの引き替えに、お金を払う、あるいは等価の元としてかつおぶしを渡して、これで貸し借り無し、というのは、失礼だろう。そこはお願いしてすなおに借りる、あるいは何かを渡すとしてもそれは等価交換ではなく、貸しは貸しとしてお煎餅でもどうですかと贈り物として渡すことが礼儀である。これは、この関係が、その場だけではなく、またお隣さんがなにかこまったときは助けるというような長期的な親密か関係を構築していることの確認としてある。

この長期的な関係は、長期的にみると貸し借りなしの等価な関係である、というわけでもない。たとえばお隣さんが父親を不慮の事故でなくして、経済的にこまっていれば、お返しなど気にしなくてもいいのよ、と返礼のきたいなく、不等価な交換が行われる。このような助け合いの関係は、お隣さんとの関係だけでなく、共同体としての繋がりとして行われる。仮にこちらが苦しいときは余裕がある他の誰かが助けてくれるというような関係であり、共同体の中で成立する互酬性(贈与と返礼)である。このような互酬性(贈与と返礼)の基底で働いているのが、想像的な力学としての「贈与性」である。




④商品交換は共同体と共同体の間で成立する


このような「贈与性」の強力さがわかってはじめて、柄谷(マルクス)が「商品交換は共同体と共同体の間で成立する」と強調する意味がわかるだろう。商品交換を成立させるためには、この「贈与性」が排除された状況が必要とされる。なぜなら、人と人が関係するときには、大なり小なり想像的な力、「贈与性」が作動してしまう。相手への興味、相手との関係性の構築への期待などが作動してしまう。等価交換と言いながら、そこに「贈与性」が進入してしまう。

だから「共同体と共同体の間」という状況は、まったく知らない者が出会い、その一瞬において交換し、なんの負債感もなく、別れていくような極限の状態である。このような極限でなければ、「贈与性」に汚染されないような純粋な等価交換は成立しない、ということだ。

純粋な等価交換−「負債感の持続時間がゼロ」であり、心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺される」関係−は、「共同体と共同体の間」で行われるという幻想的な場面でしか行われない極限の領域である。

交換は奇跡的な行為である。たとえばAという対象を持っている人とBという対象を持っている人が出会い、交換するためには、Aという対象を持っている人がBという対象を望み、Bという対象を持っている人がAというう対象を望んでいなければならないという「奇跡的な出会い」が必要である。

・・・さらには交換では、AとBというまったく共通項のない対象の間に、どのように等価を決定するのか、という問題がある。対象の価値とは交換されることで事後的にしか決まらないものであるからだ。


[まとめ]なぜお金はすべてなのか(全体) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004




⑤貨幣の超越論性

すべての商品生産者は、・・・「社会的質権」を確保しなければならぬ。・・・他人の商品を不断に買い入れることを命ずるのに、他方では、彼自身の商品の生産と売却とは、時間を要するようになり、偶然に依存するようになる。売ることなくして買うために、彼はあらかじめ、買うことなくして売っておかなければならない。この操作が一般的規模で行われることは、それ自身矛盾しているように思われる。

・・・商品を交換価値として、交換価値を商品として掌握しておく可能性とともに、黄金欲が目覚めてくる。商品流通の拡大とともに、いつでも役に立つ、絶対的に社会的な富の形態たる貨幣の力が、増大する。「金はすばらしい物だ!これをもっている人は、彼の願うこと何一つかなわぬものはない。金によって、霊魂さえ天の楽園に達せしめることができる(コロンブス)」・・・貨幣退蔵の衝動は、その本性上とめどがない。質的に、またはその形態上、貨幣は無制限である。すなわち、素材的富の一般的代表者である。というのは、あらゆる商品にたいして直接に転化しうるからである。


マルクス 資本論ISBN:4003412516) 3章3節 貨幣 P229-232

マルクスは貨幣を商品交換の「偶然に依存する」出会いを補完するものとして描く。ただ貨幣の特別性は「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」から便利であるという実在的な利便性ではない。

たとえば売り手が「砂漠の真ん中で迷ったときのペットボトル入りの水」を1千万円、100億円ということはかってであるが、買い手がそれを買わなければ、「価値」は生まれない。あるいは「父親の形見」でもよいが、決して貨幣価値化しないような「断絶」、交換を妨げるような「断絶」の侵入を排除する。

貨幣は、本来不可能であるはずの等価交換を可能なように見せる幻想である。商品間の「断絶」を想像的に回復することで等価交換が成立しているように振るまわせる。だから貨幣は「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」から便利である以上に、「あらゆる商品」に対して、従わざる終えないような「絶対的」な価値基準を提供という超越論的な位置を占めている。そこにとめどない貨幣への衝動が生まれる。

貨幣は、それぞれの商品にあたかも貨幣量で表示されるべき価値があるかのような幻影を与える。すなわち、貨幣形態は、価値が価値形態、いいかえれば相違なる使用価値の関係においてあるという事実をおおいかくす。・・・すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣によって、すべての商品は「質的同一性と量的比率」によって存在させられる。それが最初からあったのではなくい。それゆえに「共通の本質」とは、潜在的な貨幣形態にすぎないのである。


柄谷行人 マルクスの可能性の中心」ISBN:4061589318) P32-37




⑥貨幣交換に内在する贈与性

純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。


中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P143-144

現実の貨幣による等価交換ではどこまで負債感の生じない純粋な交換が可能だろうか。売り手は、信用という形で買い手(貨幣を持つ者)への負債感を引き受けようとする。等価交換は等しい関係であるはずが、信頼性を証明するのはいつも商品の売り手である。売り手は商品に対する保証を求められる。それは品質保証という意味だけではなく、ソニー製品には期待していたのに、期待はずれだな。」というような買い手の思い入れへ及ぶ。

これは、明らかに貨幣−商品の非対称な関係を元にしている。逆にいえば、貨幣は商品に対して優位な位置に立たなければ、商品交換は「断絶」の前にたちどまり、成立し得ない。すなわち貨幣交換は負債感が生じない等価交換を成立させているようでいて、貨幣に対する商品の負債感(贈与性)を隠している。このために実際の貨幣交換の場で表出してしまう。




⑦超越論的な想像的回復


このような貨幣の発生、マルクスでいえば価値形態論において形態B(拡大された相対的価値形態)から形態C(一般的価値形態)への「転倒」で語られる。これは、秩序の断絶を想像的に回復することで、回復した対象は神性化され、(人々へ)負債感(贈与性)を与える、という「転倒」である。これを「超越論的な想像的回復」と呼ぼう。

モースが見いだした贈与関係もまた、「超越論的な想像的回復」である。ここでの断絶は純粋贈与(略奪)=自然の脅威である。純粋贈与(略奪)という「断絶」を調停するために(自然)神は想像され、共同体の秩序は回復し、人々は(自然)神への負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。

このような転倒はなにも新しいものではない。ドゥルーズでは王権がうまれる超コード化(専制君主宇機械)、デリダ(東)では「散種の多義性化」、そしてラカン対象aジジェクシニシズムである。さらにヴィトゲンシュタイン「規則に従う」も、「暗闇への跳躍」のためにただ他者のマネをするという意味でまさに同様な想像的な回復を示しているだろう。そしてそのような「規則」から抜けられないのは、負債をおっているからである。

217.「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」 もしこの問いが、原因についての問いでないならば、この問いは、私が規則に従ってそのように行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい「私は当にそのように行為するのである。」


「哲学的探求」 ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076


再度言えば、(象徴界的)秩序における断絶(現実界)を想像(界)的に回復することで、回復した対象は神性化され、、(人々へ)(想像的な)負債感(贈与性)を与える。

現実界は(想像界を媒介として運動する)象徴界の極限である。いわば現実界は、象徴界における論理的欠如であると同時に、その因果的前提でもある。そして想像界は、それが負債感その他もろもろの(感情)転移の空間であるという意味において、象徴界を運動せしめる媒介だ


中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P145

(つづく)