「なぜお金はすべてなのか」Q&A その3 縦−横の贈与交換関係

pikarrr2007-10-12


⑧戦争は共同体と共同体の間でおこる


「共同体と共同体の間」が極限の状態であるのは、商品交換が奇跡的な行為である以上に、「共同体と共同体の間」とは、力のある方が暴力的に略奪する、闘争が行われる領域であるからだ。原始社会から、共同体内は贈与交換によって成立してきた。それに対して、共同体と共同体の間は、極限的な領域として、闘争(戦争)は行われてきたのである。

大航海時代に行われた植民地での略奪とはまさにそのようなことである。欧州という共同体と部族的共同体が出会ったときに、力をもった欧州が暴力的に略奪する、あるいは暴力的に不当な交換をさせる、自らの共同体へと従属させたのである。これは現在の国家間や、文化圏間にも引き継がれているだろう。

絶対主義国家による国家と商人資本の提携は、一方で、世界市場における商人交換のために競争しながら、他方で、世界中の資源(金・銀・その他)を略奪し、各地の部族的共同体を支配する植民地主義をもたらしました。交換による差額で儲けるよりも、略奪によるほうがてっとり早いのです。そして略取できないときには交換する。重商主義と呼ばれる時代の内実は、そのようなものです。


柄谷行人 「世界共和国へ」ISBN:4004310016) P133




⑨共同体内の擬似的な「再配分」


柄谷は、共同体と共同体の間での闘争領域を納めるものとして「貢納制国家」が成立し、再配分(略取と再配分)という交換様式が形成されると言う。

共同体と共同体の間では、商品交換よりも先に、相手から暴力的に略奪する可能性があります。そして、それが継続的なものである場合に、そこに貢納制国家が成立します。その場合、他の共同体から継続的に略奪するためには、一方的な強奪だけではなく、さまざまな意味での「再配分」が必要です。それは治水灌漑などの公共事業、福祉、安全の確保というかたちをとります。ゆえに、それは実際にも、一種の交換として表象されるのです。私は、この交換様式を再配分と呼びます。


柄谷行人 「世界共和国へ」ISBN:4004310016) P22

しかし再配分という交換様式は、国家において特別であるわけではないだろう。モースが見いだした共同体の内の互酬性(贈与と返礼)もまた再配分(略取と再配分)の構造にあるだろう。互酬性を生む「超越論的な想像的回復」では、純粋贈与(略奪)=自然のめぐみ、脅威という「断絶」を調停するために(自然)神は想像され、共同体の秩序は回復し、人々は(自然)神への負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。

この場合に、純粋贈与としての自然は周期性をもつ。定期的に豊作のようなめぐみを与え、水害のような災害をあたえる。ここに略取(災害、あるいは神への貢ぎ物)と再配分(豊作)という、擬似的な再配分を見ることができる。




⑩縦交換としての再配分と横交換としての互酬性


たとえば貢納制国家においても、ただ暴力において成員を統治するわけでも、また物質的に成員の生存を保証するわけでもない。国家においても「断絶」は、原始社会と変わらず、純粋贈与(略奪)=自然の脅威、外部からの敵の到来とである。そして純粋贈与(略奪)という「断絶」を調停するために王=神は想像され、国家の秩序は回復し、人々は王=神への負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。

貢納制国家を統治する「王」は、共同体の互酬性の自然(神)の位置を継承することで、成員への負債感によって国家を統治する。成員は縦への当然の贈与関係=再配分(略取と再配分)として「王」を敬うのである。

すなわち「超越論的な想像的回復」における贈与性の力学は、縦の交換関係として再配分(略取と再配分)と横の交換関係として互酬性(贈与と返礼)を生むと言うことができるだろう。そして「王」「超越論的な想像的回復」による縦−横の贈与交換関係を継承している。(つづく)
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