なぜ科学技術は死を溶解するのか

pikarrr2007-10-17



死刑の自動化


アメリカの映画で電気椅子による死刑執行場面があった。スイッチが数個ならび、それぞれの前に執行人が立ち、合図とともに一斉にボタンが押され、電気椅子に電気が流れ、刑が執行される。この意味は誰が実際に電気をオンにしたのかわからなくすることにあるのだろう。

執行人は死刑囚になんの思いもないし、ただ仕事として執行しているだけだ。しかし実際に自分がスイッチを押し、人が「殺す」という体験は簡単なものではない。本質的に他者の生を奪う行為は神の領域であり、その負債は人間が背負えるものではない。

最近、法務大臣が死刑の承認を法務大臣が絡まなくても自動的に(執行が)進むような方法を考えたらどうか」と発言し波紋を広げているが、これも同様な問題を含んでいる。*1




代替不可能な死


このような死への神性は虚構であるといえるだろう。しかし人の死と動物の死の違いは生物学的な差異ではなく倫理的な差異でしかない。すなわち死とはそもそもそこにしかない。だからこそ人は他者の死に対して背負えない負債をおうのだ。

たとえば、僕たちの内部では今も多くの細胞が「死んでいる」。これは、細胞を「個」と考えると、細胞は死んでいるのであるが、僕たちを「個」と考えると、僕という個を生存させるための新陳代謝である。あるいは蟻は細胞のように集団の役割にそってその形態が異なる。蟻1匹の死は個体の死であるが、集団の新陳代謝でもある。

そしてこれは生物学的には人間にも言えるだろう。人間の死は個体の死であるが、社会の新陳代謝であると。しかしこのような考えが問題であるのは、細胞であり、蟻であり、そこには代替可能があるからだ。1つの細胞が死ねば、すぐに他の細胞が代替する。1匹の蟻が死ねば、すぐに他の蟻が代替する。

しかし一人の人が死ねばすぐに他の人が代替するだろうか。交通事故で子供を亡くした親は他の子供で代替可能だろうか。このような「個」への強い思い、人はだれとも代替されない唯一の存在であるという代替不可能性が人間と動物を分ける倫理的な次元を開く。




純粋な暴力


自然の恵みは、決して返礼を求めない贈与であるということから「純粋贈与」といわれる。しかしそれは正確には贈与ではない。ただ「来る」だけである。それが贈与であると思うのは人の認識でしかない。たとえば大雨がふる。お百姓さんにはめぐみであっても、それが家屋への浸水を起こせば災害と思う人がいるだろう。だから純粋贈与はまた純粋略奪である。

ベンヤミン「暴力批判論」ISBN:4003246314)の中で「純粋な暴力」について言及している。しかし真に純粋であればその力は暴力ではない。たとえば大地震が家屋を破壊し大量の死者を出したとして、それは「純粋な暴力」であるが、本質的に暴力ではない。ただ「来た」だけである。

このような「純粋な暴力」が意味するのは、この負債感の消失である。地震が大量の死者を出しても、大地震の前では死んだ人は他の人でもありえた、たまたま選ばれた代替可能な人である。そして死への負債感は神という他者によってのみ担うことが求められる。だからベンヤミンはこの純粋な暴力を「神的暴力」と呼んだ。




負債感を生まない「剥き出しの生」


たとえば日々、大量の家畜が殺され、僕たちの食料をなっている。あるいは大量の捨てられた犬猫がガス室「処理」されている。このとき動物たちは(当然であるが)人間の倫理の外部にいる。そして僕たちは動物にとって神の位置にいる。動物たちは他の動物であり得たという代替可能な存在である。これは純粋な暴力の一種だろう。殺す者を恨んでいるわけでも、殺すことに快楽を覚えるわけでも、ただ殺す(処理する)。

「純粋な暴力」の真の恐怖は、人が人に対して限りなく純粋な暴力を行使することを想像したときである。デリダベンヤミンのこの「純粋な暴力」にナチズムの「最終解決」ホロコースト)を重ねて、恐怖した。ホロコーストで行われた人の生を処理する現場には、もはやユダヤ人への恨みや、快楽も溶解し、大量の生をただ効率よくすみやかに「処理」することが進められた、ということだ。

アガンベンは同様な意味で、ホロコーストの囚人を古代ローマの処罰であるホモ・サケルと重ね合わせる。法の保護から外され、誰が彼を殺しても殺人罪には問われないような例外状態におかれる。倫理的な(秩序ある)生でもなく、動物のように倫理の外部にある無秩序な生でもなく、その中間で管理され宙づりにされた「剥き出しの生」である。ホモサケルを殺すことになんの負債感も生まれないような生、ということだ。




科学技術は限りなく純粋な暴力を生む


はたして古代ローマホモ・サケルが、実際にどれほど彼を殺すことへの負債感から排除されたのか分からない。やはり手作業において人を殺害する場合に、いかに殺す人との負債感を排除しようとしても、排除しきれない。だから先のスイッチや自動化発言が現れる。

そしてスイッチや自動化発言が意味しているのは、人間の死への負債感から回避する方法として、代替可能な領域へ近づけることが有効であるということだ。たとえばホロコーストでも、人間の死を代替可能な領域へ近づけ、負債感を消失させることを可能にするために、ガス室という装置が重要な役割を果たしている。すなわち現代において、科学技術の活用は人間の死への負債感を回避する方法として有用であるということだ。

これはまさに科学技術がもつ還元主義と帰納法による。質をある単位に還元し量化することで対象を代替可能なものとする。それによって同一の実験を繰り返し、観察事実(データ)を蓄積し、たくさんの観察事実(データ)に基づいて、理論を構築する。

科学技術は例外状態をつくりだし、暴力の純粋さを増す。そして人間の生へ介入することで倫理的な次元は溶解し、負債は軽減されてしまう。だからはたしてガス室の存在なく、ホロコーストは可能であっただろうか、と問うことができる。




ボクたちは生を剥き出しにされた日常を生きている


たとえば現代の戦争の凄惨さは、科学技術による大量破壊兵器に身体としての兵士が組み込むことで、もはや兵士が誰であるかは関係がなく、ただ一身体に還元される。彼の死の尊厳は溶解され、身体の機能停止とされる。

たとえば医学において人は身体という一つの単位であり、そして身体という単位であるから医療は反復され、より最適な方法がめざされる。ここでは身体は、倫理的な(秩序ある)生でもなく、動物のように倫理の外部にある無秩序な生でもなく、その中間で管理され宙づりにされた「剥き出しの生」へと近接する。あるいは人工授精、遺伝子操作が意味することは、人間の生を剥き出しにすることである。

それだけではなく、現代において科学技術に囲まれ生活をしているということは、ボクたちは生をむき出しにされ、生きている。すなわち管理され処理される生の日常を生きている、ということだ。 そしてこのような剥き出しの生を処理する者は、科学者であり、技術者であり、彼らの倫理観は絶えず問われなければならない。しかし本質的に、この例外状態において科学技術という純粋な暴力の行使に対する主権はどこにあるのだろうか。

*2

*1:法務大臣に責任をおっかぶせない死刑執行を」鳩山法相 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/86600/

*2:画像元 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%A4%85%E5%AD%90