なぜ亀田家バッシングは薄気味悪いのか 炎上化する社会

pikarrr2007-10-18


新たな「世論」の力への気づき


亀田バッシングを見ていて感じる薄気味悪さはなんだろう。処罰をこえて、人格攻撃にいたる人々のヒステリックさ。その人格はいままで魅力であったところそのものである。最近、バッシングが途絶えることがない。安部首相と大臣、朝青龍沢尻エリカ・・・

ボクもなにか不条理なことを知ると、ネットで騒ぎにして、マスコミで取り上げられることを期待してしまう。そこには「世論」が世を正してくれるという期待がある。世論は最近起こったことではないが、新たに人々が「世論」の力に気がついたのが、イラク人質バッシングや小泉支持あたりではなかっただろうか。あの辺りから人々の中で騒ぐことが力となるという漠然とした意識が芽生えたように思う。

この「世論」の新しさは、ネットのインタラクティブ性という技術に関係しているように思う。人々の反応を迅速に表示するという応答性の速さは、人々の興味を短期で一点に集中する力として現れる。

売れているものがメディアに取り上げられることで注目度を増し、さらに売れるというスパイラル現象・・・が起き、一極集中へとひた走る。そうした情報の流通環境を加速させているうえで大きいのは、やはりインターネット−−とくにウェブの存在だろう。

いまや誰でも何か知りたいことがあれば、パソコンや携帯電話で検索すればよい。億単位におよぶほどふんだんな情報が出てくる。しかも、情報を引き出す際には、より個人に特化(パーソナライズ)した絞り込みでセグメント(区分)することすら可能だ。・・・だが、どういうわけか、何かが起きる際には一極集中のような現象が見られる。そこにこの新しい時代の逆説的な傾向がある。・・・いま訪れつつある社会は、本当にフラットなのだろうか。もうひとつの大きな要素が見逃されているように映るのだ。・・・巨大な一極とフラット化の社会というべきか。P49-50


「グーグル・アマゾン化する社会」 森健 (ISBN-10:4334033695)




2ちゃんねるとマスメディアの確信的な同期


このような傾向は、2ちゃんねる「祭り」としてはじまった。「祭り」は単に人々の興味を短期で一点に集中するだけでなく、その力そのものにみながアイロニカルである。アイロニカルであるというのは、力に自覚的でそこに操作可能性を感じ、操作そのものな楽しむ傾向がある。この2ちゃんねるアイロニーは当初、社会に気味の悪いものとして受け止められていた。

しかし最近の特徴として、このアイロニーがマスコミと同期しつつあるように思う。イラク人質バッシングや小泉支持あたりにもこのような同期は見られたが、そこには偶発的で、お互い手探りな感じがあり、2ちゃんねらーにはマスコミと同期しつつ取り上げられることに新鮮な喜びを感じていたように思う。

しかし2ちゃんねるが単なるマイナーな存在として無視できず、一般化していく中で、同期は確信的なものへ向かっている。2ちゃんねるはマスメディアからニュース(ネタ)を拾い上げる。マスメディアは拾い上げられることに自覚的にニュース(ネタ)をつくる。マスメディアにとってもこのような同期は視聴者を引きつけるニュースを作り続けられるという大きなメリットがある。

2ちゃんねるとマスメディアの偶然的な同期から確信的な同期へ。小さなつまずきさえあれば、もはや生け贄はだれでもよい。そこには、興味を短期で一点に集中する力に自覚的に作動させたいという意図がある。この確信さに薄気味悪さを感じてしまう。それはバッシングというより、「炎上」という表現の方が正しいのだろう。




終わりのない動物化の円環


ギター侍、ヒロシ、HG、こじまよしお・・・など、お笑いの消費はヒステリックに、短期間になっている。このような傾向はそのまま、バッシングの傾向と対応するのではないだろうか。安部首相と大臣、朝青龍沢尻エリカ、亀田家・・・これは、たとえば「象徴の貧困」と言われるような消費社会の傾向の一つである。

ハイパー産業社会においては、個は文化産業が流通させるイメージを取り込んで内面化する。内面化されるイメージはますます標準化され、個人の過去は全ての人にとって同じようなものとなってしまう。ひとりの個人には固有の「過去」などもはやない、産業的な「過ぎ去り(=流行)」しか存在しない、ということになる。・・・資本主義とともにグローバル化されたブランド、製品の論理による人びとの同一化、個体化。


「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911

このようなマスメディア主導の閉塞へのカウンターとして、ネットは期待された。上からの押しつけではなく、それを解体し、発散させ、横への広がりによって多様性を確保する。マスメディアが2ちゃんねるを叩くとき、そこには誹謗中傷などの様々な問題がありながらも、いままで独占してきたメディアの位置を脅かされる恐怖が確実にあった。

しかしマスメディアと2ちゃんねるの確信的な同期という共犯関係が成立してしまうと、そこに生まれるのは、終わりのない動物化の円環が加速化されるという絶望的な閉塞でしかない。「さて、次の獲物は誰かな。」とマスメディアと2ちゃんねる「炎上」先を求め、這い回っている。
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