なぜ動的な社会において秩序は保たれえるか

pikarrr2007-12-29


「贈与の一撃」


「贈与の一撃」とは、本来の贈与ではなく、デリダ的な贈与、純粋贈与と言われるものだ。一般的な贈与とは想像的な関係からくる。相手に対する親しみ、思い入れ、嫉妬などの転移という他者との関係の強化としてある。

それに対して、デリダ的な贈与=純粋贈与は、太陽からの恵みのように、他者からの見返りをもとめないようなものである。形而上学的なものとは、もともと「(純粋)贈与の一撃」への防衛としてあった。社会をあたかも秩序あり、隣人は信頼にたる者であるという漠然とした信頼。もはや「贈与」は解体されるのみなのだろうか。最近で、ネットでみられる気持ちの悪いようななれ合い、善意は、もはやこのような穴蔵でしかなれあえないという悲しい現代人の姿を表していると言えるだろう。




「強迫的な自由」


ジジェクデリダ的な姿勢を強迫神経症と呼んだが、脱構築に見られる、人が本来持つ形而上学的な思考に対する強い解体への欲望は、病的なものでしかない。たとえば「私はデリダであるが、デリダではない」というような発言に見られる。ポスト構造主義が生みだしたものは、「強迫的な自由」であるといえるのかもしれない。

しかし本質的には、「強迫的な自由」の発生は、ポスト構造主義とは関係がない。資本主義社会が重視する効率化が生みだされた一つのイデオロギーである。宮台もいうように、このような社会の自由度、流動性が向上する中で、形而上学的な信頼は解体され、人々は安心をシステムに求めるしかなくなっている。そのために発展するのが、近年の管理・監視社会である。

確かに、「強迫的な自由」によるネオリベラリズムは物質的な豊かさを達成している。格差があり、下流であって、全体の物質的な豊かさのレベルはあがっているというのが、ネオリベラリストの説明である。




動的な社会において秩序が保たれ得るのはなぜか


構造主義は、レヴィ=ストロースによって、未開社会にも贈与関係によって、経済的な下部構造があることを指摘したことにはじまる。それが現代において、マルクスが考えるような貨幣だけでなく、言語などの下部構造をもつことへの構造主義分析に発展する。しかし本当の問いは再度マルクスにもどり、これだけな動的な社会において、秩序が保たれ得るのはなぜか、と問わなければならないのでは、ないだろうか。

この流動性を混沌へといたらせずに可能にしているのが、テクノロジーである。人は社会に効率的な流動性を可能にするためにテクノロジーによってシステムを構築した。わかりやすい例を挙げれば、鉄道網や道路網である。鉄道網によって人々の迅速に自由に移動することが可能になった。しかしこの自由は駅がないところでは降りられないという拘束がある。

交通網は目に見えるが、情報化社会においては、このようなシステムは様々に張り巡らされ、人々は気がつかない内に誘導されている。これがマルクス的な疎外であるが、それはまた資本主義社会の効率化を支えているのだ。




静的なアーキテクチャーによって動的な社会が促進される


システム、最近の流行の言葉で言えば、アーキテクチャーは、人々が気がつかないところで多様に構築されている。しかしそれは静的に構築されているとしても、このアーキテクチャーこそが社会の動性を促進している。それが、マクドナルド化する社会である。ネグリとハートが「帝国」と呼ぶのは、このようなアーキテクチャー化のことだ。

最近のアーキテクチャーについての特徴的な話が、グーグルのG-mailに関するものである。G-mailは無料のメールサービスであるが、メールには内容と連動した広告が挿入される。これはプライバシーの侵害か。グーグルの言い分は、メールを読んでいるのは人間ではなく、機械である。だからプライバシーの侵害ではない、という。そしてこのような世界中に張り巡らされたアーキテクチャーによって、情報の伝達は飛躍的に活性化される。当然、ここにはフーコーパノプティコンはない。




アーキテクチャーをどのように語ることができるだろうか


レッシグ「サイバー空間ではコードが法」であるという。実社会の法は何らかのイデオロギーにおける正義をもとに形成される。しかしコードはそこに正義があるのか、あるいはないのか、わからない。ただプログラミングされた結果かもしれない。アーキテクチャーという言葉は様々な使われるが、最近多く使われる意味は、情報化を元にした構築されたもの、すなわちそこに正義があるか、どうかわからない、ただ設計されたものというニュアンスが大きいだろう。

もはや共産主義/資本主義のような対立は意味をもたない。アーキテクチャーは言葉やイデオロギーでは捉えられないからだ。ネグリが帝国(アーキテクチャ)への対抗としてマルチチュードを強調するにも関わらず、結局マルチチュードとは誰なのか、と問われ続けることは、同じことを表している。もはや共産主義的な言説では捉えられないのだ。

これは先のグーグルのG-mailの例につながるだろう。機械がメールを読むことはプライバシーの侵害か。これは従来の正義で語ることがむずかしい。

動的な社会において、秩序が保たれ得るのはなぜか、という問いは、2つの問いにつながるだろう。アーキテクチャーをどのように語ることができるだろうか。いかにアーキテクチャは設計されるべきか。




アーキテクチャー化した社会こそイデオロギー(暴力)が行使される


ではアーキテクチャー化した社会とは新たな世界だろうか。1+1=2には正義はない。論理は心情的なものを排除する特徴をもつ。たとえば古典主義経済学における、神の見えざる手には、貨幣という等価交換の論理を元にして語られている。ここに、先のグーグルのG-mailの機械がメールを読むことは、プライバシーの侵害ではない、ということとつながっている。

資本主義にはそのはじめに、アーキテクチャーを意味するのだ。現代の情報化社会は新たな時代というというよりも、資本主義の徹底であるといえる。最近、ネオリベラリズムとして市場主義が回帰していることも象徴的である。

このようなアーキテクチャーの領域は一つの例外状態であるといえる。ここで、シュミットの言葉が回帰する。「主権者とは例外状態を決定するものである」。まさに中国政府がグーグルへの圧力をかけ、検閲をおこなったように、そこが無法地帯であるほどに(権力者の)暴力が行使されるのだ。

これはただ国家権力だけの問題ではない。マルクスが、資本主義経済というアーキテクチャーを分析したあとに、強烈な正義(イデオロギー)を持つ込もうとしたことは、象徴的である。逆説的であるが、アーキテクチャー化した社会はまた権力者によるイデオロギー的言説が氾濫し、暴力が行使される可能性が高まるのだ。




新たな世論への万能感とアーキテクチャ


最近の社会の傾向にバッシングがある。亀田、朝潮龍、沢尻エリカなど。ボクはここにネット時代の新たな「世論の気づき」のようなものがあるのではないかと言った。

この「世論」の新しさは、ネットのインタラクティブ性という技術に関係しているように思う。人々の反応を迅速に表示するという応答性の速さは、人々の興味を短期で一点に集中する力として現れる。

このような傾向は、2ちゃんねる「祭り」としてはじまった。「祭り」は単に人々の興味を短期で一点に集中するだけでなく、その力そのものにみながアイロニカルである。アイロニカルであるというのは、力に自覚的でそこに操作可能性を感じ、操作そのものな楽しむ傾向がある。・・・最近の特徴として、このアイロニーがマスコミと同期しつつあるように思う。・・・2ちゃんねるとマスメディアの偶然的な同期から確信的な同期へ。小さなつまずきさえあれば、もはや生け贄はだれでもよい。


「なぜ亀田家バッシングは薄気味悪いのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071018

このような「気づき」も含めて、ネットにはある種の万能感が宿っている。様々な社会的な問題は僕たちが騒ぎさえすれば変えることができる。

しかし問題は簡単ではないだろう。このような創発的な傾向は一時の盛り上がるであり、主体的な継続性にかける。たとえば「祭り」に隠れて経済的な格差を生む構造(アーキテクチャー)が作られているのではないか。あるいはダウンロード違法化など、政治的なネットを規制する議論が進んでいる。これらは明らかに「祭り」の話題とは別に進行している。
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