なぜ単純に「人間の価値は賃金のみで決まる」といえないのか

pikarrr2008-01-07


賃金は「人間そのものの価値に対する査定」となる

よく「格差の拡大」ということがいわれる、そうしたなかで多くの「格差を問題にする人達」は、富裕層が今まで以上に賃金を得る一方で、普通の家族を営んでいるような労働者が搾取されることに注視しがちである。

しかし、この考え方だけでは現状を理解することは難しいと、私は考えている。富裕層の収入が上がっているのに、普通の家庭の収入は上がらないという「量的な賃金格差」以上に重要な問題とは、賃金そのものの価値が大きく膨れ上がり、もはや、賃金の多少のみで、人間の価値が決定されかねない社会になってしまっているという、言うなれば「量的な賃金格差から派生する、人間の価値に対する差別」という問題である。

かつてライブドアを率いていた堀江貴文は、その絶頂期に「世の中にカネで買えないものなんて、あるわけがない」というセリフを残している。・・・しかし、この言葉にはもう少し続きがある。「カネで買えないものは差別につながる。血筋、家柄、毛並み。世界で唯一、カネだけが無色透明でフェアな基準ではないか」。すなわち「金で買える」というのは、色のつかないフェアな計測基準としてのカネである。そしてこの「カネ」「賃金」と読み替えれば、まさに賃金は「人間そのものの価値に対する査定」となる。つまり、より多くの賃金を得ている人間は、賃金を得ていない人間よりも偉いのだ。


赤木智弘の眼光紙背】第14回:今年も流れは変わらないのか
http://news.livedoor.com/article/detail/3449968/




市場経済が進んでも贈与性はなくならない


「世の中にカネで買えないものなんて、あるわけがない」「カネで買えないものは差別につながる。血筋、家柄、毛並み。世界で唯一、カネだけが無色透明でフェアな基準ではないか」

ホリエモンのこのような発言は典型的なネオリベラルの言説である。社会の流動性が向上すると、お金という価値が浮上する。ここで解体される価値は、人と人との助け合い、情、憎悪などの「想像的な」贈与性である。これに対してお金という数字による価値は強い繋がりを必要とせず、誰にでもわかりやすく、高速で伝達されることから重視される。このような流れは、近代資本主義社会の必然と言えるだろう。

そして貨幣価値の利点は、100円の貨幣価値は誰に持っても100円であると言う意味で、「金で買える」という色のつかないフェアな計測基準としてのカネである」、ということもいえる。

しかし問題は、貨幣価値がフェアであっても、貨幣の及ぼす作用はフェアであるとは限らないということだ。どんなに市場経済が進んでも、贈与性は決してなくならない。なぜなら貨幣もまた贈与性をもとに作動しているからだ。だからホリエモンが夢想するような完全な貨幣価値の平等世界は存在しない。

自由競争であるからこそ、そのリスクに人々は耐えられず、なんらかの担保を求める。そして市場経済という規制緩和を述べながら、その緩和された自由度の中で、自由な競争の「境界(グレイゾーン)」で自らが優位になるように贈与性を作動される。たとえばお金持ち同士、あるいは権力者との癒着などの繋がりを担保する。

これは単に違法な贈収賄ということではなくて、十分に法的に問題ない範囲において、お金を持つ権力は人々を引きつける優位性=権力者をもつ。お金をたくさんもつ(権力)者に利便をはかることは当たり前のことではないだろうか。だから「賃金は「人間そのものの価値に対する査定」となる。」というのは、ある種当たり前のことである。





下流と言われる人々の脱社会化傾向

引きこもりでもそうだが、コミュニティから離れ、一人でやっていくことができる社会ということがすごいのかもしれない。それを可能にするのは、お金である。「お金があればなんとかなる社会」である。

これは格差問題の核心でもある。たとえば各国に比べると、日本の格差はむしろ小さいと言われるが、格差が問題になるのは、「お金があればなんとかなる社会」とは、逆にお金がなければ、どうしようもない社会ということだ。コミュニティが解体され、「幸福」と貨幣の関係が密接になってしまったことで、お金がないことが孤立的な状況を生んでしまう。

資本主義のマジックは、人が貨幣をもつことで「恋される」優越な立場におくことだ。そして人々の自意識を肥大させる。コミュニティの再生はそう容易ではないし、彼らはお金が尽きたというよりも、自意識をもったまま、消費社会の中へ埋没し、一人で暮らす方が気楽である、ということだろう。それは、「お金があればなんとかなる」という「人生の貨幣依存」へむかわせる。


「なぜ「ひとり団地の一室で」孤独死するのか」  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070125

このような「お金がなければどうしようもない社会」とは、確かに「賃金は「人間そのものの価値に対する査定」となる。」という自体につながるだろう。

しかし「お金があればなんとかなる社会」は、一人でいることを望むような人々にとっては、人付き合いや結婚などを排除し、あるだけのお金で気楽に暮らすという価値観をも生む。下流と言われる人々にはこのような脱社会化の傾向があることは否めないだろう。

いってしまえば、お金がないから下流なのではなく、下流下流の幸せがあるという自体をも生んでしまう。ある意味でこのような達観してしまえば、「賃金は「人間そのものの価値」さえも溶解してしまう。お金持ちはなんのためのお金を求め続けるのか。それは、マルクスが指摘したように、金持ちはなにに使うためではなく、さらに金持ちになろうとする物神性という欲望にとらわれている一つの生き方の形態でしかない、ことになる。

下流は人の助け(贈与性)を求めているのか。そこには「必要以上に干渉しないでただ金をくれ。」という意味があることも否めない。それは身近な誰かに頼むのでなく、税金軽減、生活保護など国家という富の分配制度へ強い依存することになる。

下流市場経済そのものを否定しているわけではない。ここに現代において、単純に「賃金は「人間そのものの価値に対する査定」」といえない複雑さがあるのではないだろうか。
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