なぜボクたちは「ノンポリ」なのか

pikarrr2008-01-21


「ぼくがどうしてこうノンポリなように見えるのか」

いろいろあって、自分の政治的立場について考えてみた。・・・おそらく、ぼくが採りたいのは、イデオロギーなき革新というか、物語なき進歩主義の立場なのだ。つまり、世の中は変わっていると考え、その変化を基本的に肯定するが、しかし特定の物語は信じず、「諸物語の均衡」にこそ支点を見出すという立場だ。

しかし、そんな立場は可能なのか。どうも難しい。そこで考えられたのが、ニヒル唯物論というか、技術決定主義というか、つまり、革新や進歩は下部構造によって勝手に強いられているのだから、もうあと人間はやることないんじゃないか、みたいな話なんだろう。どうも、ここ数年、ぼくがリバタリアニズムがどうとか、ポストモダンの二層構造がどうとか言っていたことの根源は、そういうことにあるような気がする。

政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。アーレントの言葉で言えば、政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とすこともできるはずだ。つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に。・・・物語なき政治。討議なき公共性。友も敵も作らない環境管理。政治を動物的なものに変えること。それは具体的にはなにを意味するのか。ぼくにとっての「政治」とは、そういう話だ。


「シンポに向けてのメモ」 渦状言論 東浩紀  
http://www.hirokiazuma.com/archives/000361.html
http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

東の哲学者であるにも関わらず、脳天気な?発言を平然とすることに、ボクたちは共感を覚えるのだろう。

困ったことにボクも、東がいうように「政治的に」言うことがまったく見つからない。自民でも民主でもどっちでもよいし、格差社会とか言われても外国に比べれば日本はぜんぜん豊かだし、しいていえば、老後というか年とっていきなり不況とか言われて路頭に迷うのはいやだな、ということ。

年金問題は正直びびった。この日本でさらにお金に関してあんなずさんが放置されることなんかあるんだ。海外ではさまざまな公的手続きのいいかげんさは言われるけどまさか日本であるとは・・・これも脳天気な発言なんだろうか・・・




技術進歩主義による豊かさへの信頼


このようなノンポリな姿勢は、ポストモダン社会をいきるひとつの先鋭ではあると思う。ニートラルであろうとすること。これは進歩主義の在り方なんだろう。変化は下部構造としての技術進歩がもたらし、それに柔軟に対応する。これはポストモダンというか、近代化の在り方そのものではないだろうか。

わかりやすくいえば古典リベラルの「神の手」。いまネオリベラルが回帰するのはあるいみ当然といえる。人がいろいろ「物語」を語るのはもうよいわけだ。なるべくニュートラルにして、ただ技術進歩という創発に身を委ねる。

環境問題などで進歩主義は批判されている面があるけど、あれもいいかげんだな。豊かさを享受しながら上辺だけといわざるおえない。確かに格差や環境破壊などの問題は起こるだろうから、修正は必要だ。しかしそれは必要最小限=小さな政府にすればよい。ここにあるのは近代化といい技術進歩は結果的に世界を豊かに底上げしてきたという信頼がある。

そしてもはや政治の場とは富の分配を検討することが中心になっている。「社会はいかにあるべきか」という本来の「政治的なもの」は、価値多様のなかで私的なもので、あまり干渉すべきものではない、とされている。




「歴史の終わり」というメタイデオロギー


そしてこれを「歴史の終わり」と呼ぶとき、そこには、「これはもはやイデオロギーか」という疑問が隠されているように思う。豊かさを信じる進歩主義が歴史の終わりというのは、最後のイデオロギーということではなく、イデオロギーをこえているという意味で究極なんだろう。

これはイデオロギー論でなく、イデオロギーとはなにか」というメタイデオロギー議論になっている。まさに東の論点はそこにあるわけだ。「まあ、ともかく、ぼくの思うに、ぼくたちはまず、「政治的であること」とはなんなのか、そこから根本的に考え直さねばならないのだ。(東)」

もう物語=イデオロギーはいらない。経済的なリバタリアンそして動物化・・・東は自らの立場を特殊なものというが、これは、現代の保守王道ではないだろうか。

一方で、世界は劇的に変化している。このような技術進歩への楽観主義は、先進国的豊かさの時代を生きたボクたちの脳天気さからくるのかもしれない。日本の歴史の中で唯一、世界一の夢を見ることができたわずかな時代に生きることができたというのは奇跡かもしれない。

それでもまた豊かになった中国人が銀座にブランド品を漁りにきたり、村上春樹にはまったりするのをみると、やっぱり歴史はおわったのかとも・・・
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