なぜ継続した関係が必要なのか

pikarrr2008-01-28

考える名無しさん
一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で、国が指定して国民全員、職場も学校も家庭も入れ替えたらたらいい。すべての人が毎日違う場所で違う人と出会い、毎日毎日をリセットすることで、結託しての不正や腐敗が起こることを防げる。継続的な集団の中で起こる差別やいじめも無くなる。すべての人が平等にただの人となる。

我々の社会の継続的な関係なら破綻を恐れて萎縮してしまいがちでも明日も別の場所で全員知らないもの同士の人がいる場にいくと思えば大胆に積極的に行動できる。

子供も毎日違うお父さんお母さんに育てられ、昨日は飲んだくれのドカタのオヤジでも、今日は読書家の学者のお父さんの話を聞く。夫婦も毎日違う人と暮らす。

無差別殺人や親殺し子殺し、引きこもりや、差別やいじめ。これらの問題はすべて、継続的な関係の中で発生する。レッテル張り、軽視・蔑視、コンプレックス、同じ日々の繰り返しが奪う希望。嫌いなのに切り捨てられない関係性、これらがもたらす閉塞感が原因だ。

生活を保証した上で、すべての人の日常、顔を合わせる人を流動的にすれば閉塞感は一掃され、今日がダメでも、明日に期待が持てるようになる。

第三の波平
そんな流動性に人耐えられないだろうな。違う場所にうつされたとたんに死んじゃうジュゴンみたく。

考える名無しさん
固定化された人間関係に固執しなければ、生活の不安が大きすぎるからそうしているだけです。流動性が怖いというのは、固定された組織に自分が流れこむのが、怖いのです。または自分だけが流れ出てしまうのが怖いのです。何故ならそこには人間関係が出来上がっていて、自分がよそ者の立場になるからです。

生活が保証されてさえいれば、どの集団も毎日中身がすべて入れ替わり、自分の職場も住居も毎日変わるなら閉塞感を感じることなく自由に縛られることなく希望を持って生きることができます。継続的な関係だと言いにくい美しい言葉も平気で語り合うことも出来るようになります。

生活が保証されさえすれば、毎日が人も仕事も物も住居も流動的であれば、閉塞感は無くなります。昨日の恥も失敗も人に作った借りも、今日に引きずらなくて済むのですから、何を言っても『あんなことを言っていたくせに』、『こんなことをしていたくせに』、『こんなこともできないくせに』と思われる心配も無く、大胆に行動できるようになります。毎日関係がリセットされるから、誰もが個人としての力しかもたず平等でもあります。

第三の波平
人は多くにおいて反復され、すなわち予測可能な世界を生きている。明日の今頃、1ヶ月後の今頃、なにをしているか、だいたいわかる。これは日常の安心を支えている。ボクはよく、ケータイを見ながら歩いているが、歩いたことがない道ではそんなことはできない。無意識のうちに日常の様々な情報がインプットされている。

しかし毎日生活がわかるような予測不可能性が高い生活を送るとすればそれはとても緊張を強いられるものになるだろう。

そしてもっとも予測不可能で緊張を強いられる存在が「他者」である。現代は社会の流動性が上がっているために、とても不安なものになっている。街を歩いていた見ず知らずの人が話しかけてきたらどうだろうか。それもすこし「得体の知れない人」が。おそらく昔は社会に漠然として安心があり、お互いに助け合うような慣習があっただろうが、いまはそう簡単に気を許すことは危険になっている。

第三の波平
毎日入れ代わる他者の中に、悪意の他者がいないとなぜ言えるだろう。さらには明日にはもう合うことがない。犯罪とまではいかなくても、その日だけの関係だから、悪意あることをすることができる。

仮にある日、悪意をうけ傷ついた人は、次の日違う人と合う場合にも、緊張を強いられるだろう。一見、いい人そうでも腹の中でなにを考えているかわからない。他者とはそのような存在である。この予測不可能性の緊張感を人は生きられるだろうか。

「一定水準の衣食住と医療福祉を国家が完全に保証した上で、国が指定して国民全員、職場も学校も家庭も入れ替える」という発想には、すでに国家による社会の高い安全性が前提にされている。国が管理するのだから、新たに出会う他者は信用にたる、あるいは標準化された親切な他者という、あまりにも社会を知らない幼稚な期待がある。

第三の波平
あるいは、親子までも流動性を高めると、人の尊厳は保たれるのかな。ある親は子供を自動車事故で失う。しかし次の日には新しい子供が来るわけだから。

人間が動物と違い、代替できないことで、たった一人という尊厳が保たれる。それは他者に対しても、そして自らに対しても。容易に代替可能な存在として、人は自らに誇りを持てるだろうか。ボクなんかいなくても、という若者に自殺は、現代社会の流動性に関係しているだろう。

考える名無しさん
お前は恐いから安心を得たいんだ。安心を得ようとして閉塞感で身動きが取れないタイプだ。俺が求めているのは刺激だよ。パッション、エクスタシー、エロティシズムを求めている。関係も環境も継続的でないなら毎日が刺激に満ち閉塞感は無くなる。生活が保証されていて、社会も個人も流動化されているなら、閉塞感は一掃され、今日が悪い日でも明日に希望が持てる。

皆関係が毎日リセットされるから、誰もが平等にただの人だ。俺にとって周りの人間が得体の知れないものであるのと同様に周りの人間にとっても俺が得体の知れないものとなる。平等になる。

考える名無しさん
流動性が怖いというのは、周りが連携して生きているなかで自分が連携を持っていないことが怖いんだ。また、今の社会では生活が不安定になるから怖いんだ。

生活が保証された上で、すべての人が毎日違う場所で毎日違う人と顔を合わせるなら流動性は怖くない。平等な立場で誰も結託して攻撃することもできない。誰もが目の前の人物がいかほどのものかわからない。分かるだけの間も無い。臆さなくて良い。


考える名無しさん
企業全部国有化して利益をそのまま国民に還元すればいい。誘導的なら結託して不正を行うことはできない。ましてや流動する社会で育った子供は腐敗を知らない。差別や悪い感情も他人と共有しなければ、開き直ることもない。まっさらに育ち良く生きる。

第三の波平
そのような高度な流動化システムを保つための安定した国家管理機構が必要になる。これは権力の集中化で、腐敗に繋がることは明らか。

考える名無しさん
政府も毎日配置換えをする。情報はデータベース化して毎日追加する。毎日引き継ぎをする。

第三の波平
高度なシステムになるほど、それを管理するための権力の集中が必要になる。共産主義にしろ、全体主義にしろ、理想論に対して、権力の集中が腐敗に繋がった。

自由主義というのは、この管理を人ではなく、神の手にゆだねることで、これを回避する。しかし格差社会などのようなコントロール不可能な自体に陥る心配がある。

情報化社会では、人でも、そして神の手でもなく、機械に任せられないか、という発想がある。しかし国家の大きな役割は、非常事態にいかに対処するかということだから。法の外、国家の外での新たな判断すること。


考える名無しさん
日本の日常の閉塞感を一掃してしまいたいんだ。馴れ合いの気安さと無礼を一掃してしまいたいんだ。すべてが入れ替わり今日を明日に引きずらない社会を望んでいるんだ。温泉のかけ流しみたいに今日言った言葉も、今日の失敗も恥も出会った人も、家族も、職場も、住居も、毎日全部流してしまって、次の日には新しく入れ替わって何も引きずらなくて済むことが私の理想なんだ。

社会が固定化されているから、そこから外された時に疎外感を感じるんだ。すべての人がどこにも帰属意識を持たないなら疎外感を感じることもない。

それに継続的な関係でないなら、親も子供に愛情表現をしやすい。夢や情熱をためらわずに語ることもできる。子供は手垢にまみれず、真人間に育つ。

第三の波平
私というのは継続した関係によって保たれるわけだ。私は親である、というのは、私の子供との継続した関係によって保たれる。その関係さえ破壊すれば、なにによって私は親であるのか。

住む場所も、持ち物も、TV番組も毎日かわるのなら、残るのは身体としての個体のみ。私は存続されない。これは精神的な病でしかない。

本来は、私とは他者との関係性によって規定されるもの、逆に他者との関係がなければ、見失いものなんだろうが、現代消費社会では、私というものは、自らの気に入った物に囲まれることで、見いだされるように錯覚される。

この気に入った物のセカイ=私的な領域が肥大することで、他者との関係という社会的な領域が断絶したいと考えるようになる。私的な領域を優先させたいという願望が、社会的な拘束を回避する、すなわち流動性を上げよう、という発想に繋がるのだろう。

実際、これは幼稚な錯覚なわけだ。どんなに社会が豊かになり、お金ですべてが買えるといっても、社会で生きると言うことは、継続した他者との社会関係に向き合い、自らを見いださなければならない。社会的な流動性を上げるという願望は、他者を回避したいという、一種の引きこもり願望でしかない。

第三の波平
まとめると

・権力集中の問題

様々な高度な政治システムは考えられるが、高度になればなるほど、そのシステムを中央でコントロールする「神の位置」が必要になる。そこに座る人がいかに腐敗しやすいか。民主主義は選挙によって、神の位置を入れ替える。それによって、高度な統一したコントロールができなくてもだ。「神の手」にゆだねるというわけだ。

象徴界の他者の問題

人間の尊厳とはなにか。なぜ動物の一匹と違うのか。それは他者との継続した関係の中で見いだされる単独性にある。

現実界の他者の問題

安定した日常=社会とはある種の幻想である。人は絶えず、不確実性、予測不可能性の世界を生きている。いかに社会を安定させるか。しかしそれだけでは閉塞する。適度に不確実性を侵入させるか。予測可能性と不確実性のバランスに「成長ある秩序」が見いださせるということ。

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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板「資本とネーションと、時々、国家 4」http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1192970830からの抜粋です。内容は一部修正しています。

*2:画像元 http://itachi.jugem.cc/?eid=201