なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その3 個の物語と集団の物語

pikarrr2008-02-07

現存在的の物語


ボクがいう「物語」とは形而上学的なものです。よりわかりやすくいえば、「私はなにものであるか?」ということに対する答えです。「ボクは〜年生まれで、〜という父母の間に生まれて、〜のような性格で、〜のような経験をして、〜のような長所短所があり、〜のような夢をもち・・・」ということです。このような物語が物語として強度をもつ、すなわち「私はなんであるか?」により明確に答えようと紡がれる力は、現存在が現存在たるための、ハイデガー「死への先駆的覚悟性」によると考えています。すなわち死という終わりがあることで、物語は紡がれる。終わりがないところに物語は生まれない。だから動物には物語がなく、そして「死もない」、ということです。

コジェーブが動物化でいったことは、物質的な満足の中で、「私はなんであるか?」という問いが失われる。現存在が現存在たるための「死への先駆的覚悟性」が失われる。極端にいえば、ただ今が刺激的で満足であることで時間が経過し、気がつけば死んでいた、ということが理想的な動物化です。




言語ゲーム的な物語


物語にはまた異なる意味もあるということです。それはヴィトゲンシュタイン言語ゲームに近いものともいえます。言語ゲームは集団に共有されている物語です。では現存在的な物語と言語ゲーム的な物語の関係はどのようになっているのでしょうか。現存在的な物語は、言語ゲーム的な物語がなければ存在しません。しかし現存在的な物語は人それぞれ唯一のものです。

すなわち現存在的な物語は、言語ゲーム的な物語をリンクしつつ、独自性をもつということです。そして重要なことは現存在的な物語はどの程度、言語ゲーム的な物語を関係するか、ということです。




代替不可能な死


ボクは、動物には物語がなく、そして「死もない」、といいました。これはおかしいと思うでしょう。動物だって死ぬよ、と。これがこの議論の確信です。ボクはこれについていままでも何度も説明してきましたので、再度、引用してみましょう。

このような死への神性は虚構であるといえるだろう。しかし人の死と動物の死の違いは生物学的な差異ではなく倫理的な差異でしかない。すなわち死とはそもそもそこにしかない。だからこそ人は他者の死に対して背負えない負債をおうのだ。

たとえば、僕たちの内部では今も多くの細胞が「死んでいる」。これは、細胞を「個」と考えると、細胞は死んでいるのであるが、僕たちを「個」と考えると、僕という個を生存させるための新陳代謝である。あるいは蟻は細胞のように集団の役割にそってその形態が異なる。蟻1匹の死は個体の死であるが、集団の新陳代謝でもある。

そしてこれは生物学的には人間にも言えるだろう。人間の死は個体の死であるが、社会の新陳代謝であると。しかしこのような考えが問題であるのは、細胞であり、蟻であり、そこには代替可能があるからだ。1つの細胞が死ねば、すぐに他の細胞が代替する。1匹の蟻が死ねば、すぐに他の蟻が代替する。

しかし一人の人が死ねばすぐに他の人が代替するだろうか。交通事故で子供を亡くした親は他の子供で代替可能だろうか。このような「個」への強い思い、人はだれとも代替されない唯一の存在であるという代替不可能性が人間と動物を分ける倫理的な次元を開く。


なぜ科学技術は死を溶解するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071017

生物学的(科学的)に死は、脳死などのようで定義されていますが、必ずしも移植などの利便性を考えて、最近定義されたものです。本来ボクたちが考える「死」とは、人の尊厳を支えるための倫理的なものでしかない。それは、人間は一人一人かけがえがない存在であるという「個」への強い思いによってのみ、支えられています。

これに対して、「集団」というものを重視するとき、個というものは集団の一部となり、個人の死は集団の新陳代謝としての面が強調されてしまいます。

再度、物語論にもどると、現存在的な物語とは「死」という終わりがあるから物語として成立する、「個」への強い思いに支えられてものです。言語ゲーム的な物語は、ある文化集団の神話ですが、これを強調する場合には、個人の死は物語の終わりでなく、集団の神話の新陳代謝として自己組織的に紡がれていくものです。これらはどちらかということではなく、どちらの傾向が強いかというようなものです。




物語への収束(代替不可能性)と物語の拡散(代替可能性)


ボクの物語論では、さらに、物語への収束(代替不可能性)と物語の拡散(代替可能性)という対立軸が入ってきます。

再度いえば、科学技術重視の情報化社会では、形而上学的な物語は主観的なものでしかないと攻撃されています。個の物語「私はなぜ生きているのか」には、「確率論の問題でたまたま生きているだけ。意味はない。」と解体され、集団の物語「人の尊厳とはなにか」「尊厳とは幻想であり、増殖が生物の本能だor集団の方が経済的に効率がよい」と還元主義的に解体される。この先には、ただ今が刺激的で満足であるならば、それでいいだろうという動物化があります。

人はそう簡単に動物化して充足することはできません。だから物語の拡散(動物化)の反動として、個の物語は村上春樹風に向かい、集団の物語はスノビズムに向かうのではないでしょうか。

まとめると以下のような図式になるでしょう。


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