なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その4 物語への転倒

pikarrr2008-02-08

DNA配列の危険


西洋哲学の根底には、人間/動物という対立が流れてきました。ギリシャ時代でいえば、人間とは労働から解放され、社会の中で自由で平等に振るまえる主人です。動物は奴隷など主人に従い、労働に従事するものです。今ではわかりにくいですが、このような人間/動物対立は科学的な客観性に相当するほど常識的なものでした。

大航海時代に有色人種に行われた非道は、同じ優秀な人間として認められていなかったという、常識を背景にしている面があります。あるいはナチスなどの優生学までもこの系譜はみることができるでしょう。人は生まれか、教育かという議論は最近までなされ、人間には優秀な人間から、下等な人間が存在すると信じられていました。
現代は、DNAの発見によって、人間/動物対立は科学的客観的なものになりました。もはや人間/動物という非常識な対立は遠い過去です。といえるでしょうか。

新たな科学的な還元主義を背景にした差別の可能性があります。人間と動物は、DNA配列によって差異化されたとして、人間の中でDNA配列の差によって、優劣が決められる可能性があります。たとえば精子バンクでは優秀な遺伝子というものがあります。あるいはDNAの解明によって、より客観的に根拠によって、優秀なDNAが特定され始めています。様々な病気に強いDNAであるとか、あるいは肥満に関係するDNAなど。

ここには明らかに還元主義的な短絡があります。人間の優秀さはDNAに還元できるのか。再度浮上するのは、人は生まれか、教育かという議論です。この先に、DNA優生学という差別が生まれる可能性は高いのです。

さらにDNAが保存されるとき、人にとっての死とはなにを意味するのでしょうか。それはまさに、「個」への強い思いが揺らぐのです。遺伝子に関する科学実験はたえず倫理的な議論を呼び続けているのはこのような背景によるものです。




物語化への転倒


このDNA優生学という例が示すのは、人は容易に情報化→物語化へのと転倒するということです。DNAは科学的に客観的に公平だ、というとき、すでに「DNA優生学の物語化が隠されています。

このような転倒はスティグレールのいう「アクティング・アウト(決行)」につながります。

文化コンテンツによる大衆のリビドーの捕捉は、究極的にはリビドー自体の破壊にまで及ぶ。様々な事件や凶行として現れる「アクティング・アウト(決行)」を招いている。

暴力的・犯罪的行為や凶行のもとには、自分は生きているのだという、存在感覚の喪失がある。消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在しているのだということを逆に証明せねばならなくなる。自己存在の証明のために、凶行に及ぶような行動をとるようになる。


「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911




村上春樹はなぜオーム真理教事件に惹かれたのか


特に最近、気になるのが、ポストモダン動物化)→ネオリベラル(環境管理化)→(しらずに)物語化の流れです。もともと物語化していることに自覚であれば、まだしも、物語化を否定しつつ、物語化してしまうことに危険があります。

「つまり、革新や進歩は下部構造によって勝手に強いられているのだから、もうあと人間はやることないんじゃないか、みたいな話なんだろう。(東)」

「グーグルがゴールとして目指しているのは、グーグルの技術者たちが作り込んでいく情報発電所がいったん動き出したら「人間の介在」なしに自動的に事を成していく」世界である。(ウェブ進化論 梅田)」

村上春樹風のタフさはこのような転倒をさける強さがあります。しかしこのタフさもまた日常という反復(退屈、不安)の強度に疲れたとき、気づかずに集団的な物語化へ転倒する可能性はあるでしょう。

村上春樹が一時期、近年日本で最大の転倒(物語化)であるオーム真理教事件に興味をもったことは、この狂気を行った人々の中に自分の姿を見てしまう恐怖があったのかもしれません。プールという四角いコンクリートの箱を往復し続けることに疲れたとき、魅力的でそして狂気な物語に魅力されてしまう恐怖・・・。

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