なぜ日本昔話は教育的な番組なのか

pikarrr2008-02-11

悪いことをすればいつか罪を償う


日本昔話は教育的な番組といわれる。なぜ教育的なのだろうか。簡単にいえば、良いことはすれば報われ、悪いことをすれば、罪を償うという構造を持っているからだ。すなわち、「負債は必ず支払われる」ということが、倫理の基本である、ということだ。

物語とは、負債が支払われる話だ。いや、子供なら日本昔話のようなわかりやすいもので良いが、大人の物語は、そんな単純ではない、というだろう。確かにそうだ。悪が栄えるような物語、あるいは負債が支払われたかわからず終わるなど、いろいろある。しかしこれらを物語として成立させているのは、負債は必ず支払われる、という基準を元にしている。

たとえば花咲じいさんが不幸になる物語は、パロディであり、シュールであり、楽しい。この楽しさは、負債は必ず支払われるという、基準をもとにしているから、そこからのふり幅として、おもしろいのである。




無意識の倫理的な力学


「負債は必ず支払われる」というのは、人の心理に働く力学なのである。実生活でも、悪いことをしている人がいれば、そんなことしているといつかひどい目にあうぞと思ってしまう。あるいは、自らの行動において、こんな悪いことをしているといつかバチがあたるんじゃないか、と「良心」の呵責が起こる。これは単に古い道徳観念というだけではなく、無意識に行為に作用してしまうという意味で、いまでも実働的な意味があるのではないだろうか。

このような社会に働く、無意識の力学を指摘したのが、構造主義である。それをラカン「手紙は必ず宛先に届く」で表現した。これは人間の生物的な本能ということではなく、精神分析には去勢と呼ばれ、人は大人になる中で内面化され、社会が秩序を保つために働く無意識の力である。




経済的効率と物語化の力学


これは法律とは異なる。たとえば不条理なことをされた人が、復讐をするとき、それが法律に反することであっても、心情としてはわかる、ということがある。またことは、経済的なこととも異なる。苦労して稼いだ人と、楽をして稼いだ人では、その人への好意は変わるだろう。

現代において重視される価値観は、功利主義など社会全体の効用を基本とする。これは古典的な自由主義の基本となった、経済的な効率性を元にしている。構造主義は、このような経済的効率化を重視する現代の傾向以前から、社会秩序を維持するために働いていた無意識の倫理的な原理を明らかにした。

ネオリベラリズムなど、経済的な効率性が重視される傾向の中でも、様々な「物語」が楽しまれているということが、いまも物語化という倫理的な力学は作用していることを表している。




動物化されたメディアの反乱


以前、北野武北野映画は残忍なシーンが多すぎるのではないか、という批判に対して、「ハリウッド映画はその派手な映像の中で、多くの人が死んでいるはずなのに、血の臭いがしない方が問題だ」というようなことをいった。

ハリウッドの娯楽映画のストーリーの多くは、とてもわかりやすく、退屈な正義が勝つというものである。そして派手な映像と音響の刺激を観客を楽しませる。このようなストーリーよりも、刺激的な効果によって、人々を充足させてしまうような、映像やゲームなどのメディア、すなわち動物化されたメディアが反乱することに問題がある、ということだろう。

そして物語が物語でありつづけるために、「負債は必ず支払われる」地点からのふり幅において、どこか人を宙づりにするような脱構築された物語が作られつづけることで、倫理的な力は継続されていく、ということだろう。



「貨幣と精神」 中野昌宏 (ISBN:4888489785

モースはまず、提供・受容・返礼という義務、そしてそれを命ずる贈答規則−<贈与は必ず返礼を伴う>−を、人類学的、博物誌的事例から抽出する。そしてそのうえで、この贈与の回路を永続させる<力>、贈答規則それ自体を創出する呪術的な<力>を見いだす。

彼は呪術的なものに基づいた神秘的な理論を打ち立てたのではない。むしろ逆に、呪術的なものを人間の世俗的生活に奉仕する「打算的な」(つまり合理的に理解可能な)原動力、あるいは究極的には、実体化された人間関係に還元して捉えることで、それを脱神秘化したのである。・・・こうした原動力はいうまでもなく、「未開」社会にも現代社会にも機能しているものである。

レヴィ=ストロースの批判点は、モースの交換のシステムという一つの象徴システムをせっかく摘出しかかったのに、最終的には情緒的、神秘的な回答に落ち着いてしまったという点にある。ラカン用語で言い換えれば、モースは象徴界の理論を打ち立てようとして、最後の一点で想像界に足を取られた、といったことろだろうか。

レヴィ=ストロールにとっては、交換のシステム、言語のシステムを含む人間の織りなすシステムはすべからく「一挙」に与えられる。・・・したがってこの見方に従うならば、・・・まず贈与と返礼の義務を感じ、次に実際にそれを行うという因果的説明は的外れだということになる。・・・言い換えれば、構造主義とはまさに<そこに構造があるからこそ、われわれにとって合理的な理解が可能なのだ>という立場なのである。

レヴィ=ストロースはまず交換ありき、と言うまさにこの地点で、彼は交換がどうして生じるのかという問題に答えられなくなり、彼の言う「構造」はア・プリオリかる静態的である、という批判が妥当することになるのではないか。

その円環の中で、回送する動力は、モースの「贈与」、すなわち「想像的」な負債とその相殺という運動の次元にあると考えて良いだろう。そして、その因果連鎖をもっと起源にまで遡れば、ある原動力極限的なものとして想定しなかればならない。それこそが「不可能なもの」であり、「現実的なもの」である。

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