なぜ「世界共和国」は超越論的統覚なのか。

pikarrr2008-02-12

考える名無しさん
柄谷の単独者というコンセプトは「私」という実存的な問いが「ほかならぬこの」という否定神学的な構造・他者関係へと媒介されることで普遍性へと「飛躍」するという流れになっていて、いわゆる「主体」とは関係ない。むしろ「構造」「歴史」を実存の側から言ってみたのが「単独者」でしょう。

とはいえ、「ほかならぬこの」「普遍への飛躍」が、ある者たちにとっては「自己疎外の回復」として機能してしまっているのは確か。

「単独性」「ある/ない」というハナシではなくて、誰もが「歴史」からみたとき単独者であって、回復したり疎外されたりするものではないにもかかわらず、「類的本質」(社会)から眺めたとき、自己疎外の物語と読まれてしまったというわけでしょうね。

第三の波平
ボクがいちばんわからないところがそこなんだけど。否定神学的な構造・他者関係から、普遍性へと「飛躍」できるのかがわからない。

ヘーゲルから続く「主体」の欠如=否定神学という流れは、まさに(ポスト)構造主義なのに。ここに、欠如をくるりんぱっと、カントの超越論的統覚に反転するマジックがある。それがまさに世界共和国を生むわけだから。

第三の波平
ラカン的に説明すると、否定神学的な穴は現実界で、人々が禁止される故に享楽する対象aなわけだけど。これは、柄谷のいうカントの超越論的統覚=皆が欲望する対象ということにかなり違い。

しかしラカンにおいては、ここは幻想の場なんだよな。なにか積極的な対象があるわけではなく、禁止されることで欲望してしまうような幻想の場。

そうすると、疑問がある。

・なぜ皆が欲望する対象が「世界共和国」であるといえるのか。超越論的統覚と世界共和国のつながりって、カントがいったことしかないのでは?これってもはやエヴァの世界?みなが人類補完を望んでいるというゲンドウの思いこみ?

・仮に人々が「世界共和国」を望んでいるとして、それが幻想であるとなぜいえないのか。

考える名無しさん
「世界共和国」は理念ですね。欲望の対象ではない。むしろ欲望のほうはそれを拒否するように動くが、「歴史の狡知」によって何回かひどい目に合えば学習し、いずれ到達するだろうという話。

第三の波平
なるほど。「世界共和国へ」ISBN:4004310016)でも、最後に少し(なぜか少しだけ)、将来の行き詰まりをいくつかあげてますね。戦争、環境問題など・・・

いまの資本主義には解決できない問題がいくつかあり、いつかいきずまる。それを解決するのは「世界共和国」という考え方ではないか。だけで、説明は終わってしまうのでは、と思うのです。

そこにカントの超越論的統覚論を持ち出す必要がどこにもないような。カントの超越論的統覚という理念論がある。その理念に何が入るか、いろいろな考えがあるだろう。私、柄谷はそこに「世界共和国」が入ると思う。それは戦争、環境問題・・・などの理由からだ。ならわかるんですね。

考える名無しさん
でないと「世界共和国」がめざすべき「構成的理念」になるからじゃないですか。するとまた結果的に歴史が停滞する。だからあくまで「世界共和国へ」は歴史に対する認識を持つための「啓蒙書」であって「革命の書」「社会運動の本」ではない。

第三の波平
なぜ「世界共和国」「構成的理念」ではだめなのか。なぜそれで歴史が停滞するのか。

あるいは、「歴史の終わり」ではいけないのか。ようするに、ボクのようなリベラリストは、、「歴史の終わり」で何が悪い。環境問題だって、原子力発電増やして、省エネ技術を広めてなんとかなるよ。「世界共和国」は宇宙人が攻めてきたときまで、とっておけばよい。となる。

考える名無しさん
マルクスマルクスレーニン主義になったように、柄谷が柄谷行人主義になるからじゃないですか。社会主義は結果的に「冷戦構造」を作って資本のグローバル化「停滞」させたけど、産業構造の変化(国際分業体制)によって瓦解した。

「歴史の終わり」というのはマルクスヘーゲル的に読んだ場合の言葉であって共産主義を目指すべき「構成的理念」(絶対精神)として扱った言い方ですね。実際、資本主義は終わっていない。目指すべきものがこないから終わったといったんでしょ。最初から目指すべきものがなければ終わらない。

構成的理念(社会主義)は結局資本主義の内部(内省)でしかないというのが、たぶん柄谷のいいたかったことじゃないの。

第三の波平
なるほど。カントの超越論的統覚で意味したのは、柄谷は、構成的理念でなく、統整的理念にしたかったから。構成的理念では、前回の轍を踏むから、ということですね。

それでも、世界共和国が超越論的統覚である理由がわからないですね。なぜ世界共和国を理念とする意味が。あくまで、サヨへの呼びかけでしかない。「サヨ、構成的理念でなく、統整的理念=超越論的統覚にしろ!」

考える名無しさん
「近代国家」というコンセプトは限界に来ていて(国際的な分業体制によってコーポラティズムは機能せず労働運動ももりあがらない)それを超える道のひとつは、国家(STATE)の連合としてのアメリカ」「EU」「アジア」、あるいは国際連合的なもの。もうひとつは地域集団、消費者集団、アソシエーションの連合。

前者は言うまでもなく期待できないから後者の道に希望を見ているようだが、そこで問題なのが「国家」からいかにして「アソシエーション」に移行するかであって、そこから機能としての「国家」とは何かという問題構制になる。

第三の波平
でも、ほんとに「近代国家」というコンセプトは限界に来ている?ともいえます。

最近、「国家」が問題になっているのは、ネオリベ的な小さな国家から、さらに経済的なリバタリアンの国家はいらない、という流れではないでしょうか。結局、自由−保護の資本主義のふり幅で乗り切っていけるというのが、「歴史の終わり」ということでしょ。

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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板「「探求」柄谷行人について探求するスレッド」http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1202618829/からの抜粋です。内容は一部修正しています。

*2:画像元 http://stpher.com/Hermitagetokutyou.html