なぜ哲学は形而上学を批判しつつ倫理的なものを救済するのか。
コギトの救済
デカルトは科学者であり、機械論者である。「方法序説」(ISBN:4003361318)を読んだだけで、あの科学の黎明期に、もうどれだけ科学がおもしろくてしょうがなかったか、その熱中さが伝わってくる。それとともにまたデカルトはキリスト教者でもある。人間は動物と同じく機械だ、なんて口が裂けてもいえないし、自ら納得できない。
だから人間性=精神をいかに救うかという思考が、コギトになるわけだ。懐疑(分析)しつくした先に、懐疑(分析)できない我をみいいだし、これだ!と思うわけだ。そしてこの通路をとおって、神は守られる。しかしこれはまた、宗教から科学(機械論)を守る方法だったともいえる。
デカルトの苦悩
デカルトは近代思想の祖と言われるのは、事後的なものだろう。デカルトの心身二元論の苦悩は有用でありつづけたからだ。
一つは、このデカルトの強引な形而上学の救済への批判である。形而上学の救済は、倫理的である反面、様々な理念の強化に使われる。この私は、この私を保証する神であり、この私を保証する思想など。特にニーチェ以降の現代思想はこのような形而上学の解体を目的としてきたといえるだろう。
もう一つは科学のあり方として。現代でも科学はいつもこの苦悩にぶつかる。たとえば医学なら、死の判定の問題がある。脳死とはあくまで身体側からの判断でしかない。さらには延命装置があれば脳死状態でも身体は生存しつづけることができるだろうが、医療費がかさむ、というような経済的な判断もある。また移植のための臓器の取り出しに有用であるということもあるだろう。これには人間とはなにか、という精神側からの意義があり、絶えず倫理的な議論がつきまとう。
あるいは最近なら遺伝子の問題。遺伝子操作は身体側の操作である。ここでの精神をどのように考えるか、すなわち人間の尊厳とはなにかということが問題になる。日本人はこのあたりに疎いけど、西洋ではいまだに進化論を問題にするぐらいに、「デカルトの苦悩」の問題は繊細でがある。
すなわちいまも受け継がれる近代思想最大の問い、デカルトの苦悩とは、形而上学を批判しつつ、倫理的なものをいかに救済するか、ということである。
現代において、デカルトの苦悩の問いの解答に成功した例として、精神分析があげられる。だから精神分析が科学であるのに倫理的であると言われる。
精神分析の基本原理は、動物はほぼ成体として生まれるが、人間は未熟児で生まれる。そして他者との関係の中で成体となる。ナルシズムな幼児期は、母(想像的他者)との関係から、やがて父(象徴的な他者)との関係し、去勢され、社会性(超自我)を身につけることで、成体となる。
人はこの私というような理性によって主体的であるつもりが、実は幼児期の他者との経験によって形成された無意識が働いているということである。
フロイトが性的なものにこだわった理由の一つは、性的なものにおいて、無意識の作用が観察されやすいからだ。動物は生殖のための性関係を行い、種で固定された信号に反応する。しかし人間の性的な趣向は生殖と関係がなく、人それぞれである。靴フェチ、幼児性愛、ビニールフェチなど、いろんなものに発情する。この倒錯性は幼児期の満たされない経験=無意識からきている。。
精神分析の倫理
精神分析が精神分析学でないのは、このように人は科学的に還元できない。人の経験=無意識は人それぞれで、1回限りのものである。だから一般的な医学のように学問として体系化され、そのマニュアルによって治療してはいけない。患者の一人一人の症候と向き合わなければいけない。これが精神分析の倫理である。
ここにデカルトの苦悩、形而上学を批判しつつ、倫理的なものをいかに救済するか、ということの一つの解答がある。すなわちこの私を形而上学として超越するのではなく、一つの原理として説明する。
たとえば最近の科学では、遺伝子はその人を特定するとなっている。では遺伝子情報がこの人という倫理的なものを救済するだろうか。遺伝子情報の問題は、生まれで固定してしまうということである。最近、それぞれの遺伝子の作用が解明されつつあるが、それが優生学的に、優秀な遺伝子/劣等な遺伝子というように、すでに語られる始めている。
精神分析による無意識の単独性は、人は育ちで決まるというではなく、その後の経験によって、変化することが意味する。人はこの私として単独性をもつが、またそれは変化しつづけるものである。それが精神分析からのデカルトの苦悩への返答である。
根源的他者性=痕跡(エクリチュール)
このような精神分析の倫理は、フロイトを経て、ラカンによって語られた。デリダにさらに、変化を強調する。デリダの痕跡(エクリチュール)とは、物質的な傷を表しているのではない。変化の中の起源であり、同一性であるような「身振り」である。
この表現は相対主義へ転倒する一歩手前であり、とても微妙である。まさにデカルトの苦悩=形而上学を批判しつつ倫理的なものを救済するという、瀬戸際を表現しようという苦悩があるといえる。
デリダは精神分析を特定の「局所的な」分野とはみなさず、「存在論という、またはとりわけ存在という基礎的概念」を解読する読解方法とみなしている。・・・フロイトは、自ら認めるかどうかは別として、精神は「抹消の下にある」記号の構造だと暗示している。なぜなら、精神は記号と同様に、根源的な他者性、完全に他なる者に住まわれているからである。「フロイトはこれ(この根源的他者性)に無意識という形而上学的名称を与えている(デリダ)」
この他者性はそれ自体として決して意識に現前することはできない。意識は、それ自身と無意識の間にある前意識にしかかかわりを持たない。自らの内に永続的な他者性の痕跡をもっているもの、すなわち精神の構造、記号の構造。この構造にデリダは「エクリチュール」という名を与える。記号は・・・決してそれ自身としては現れない別の記号の痕跡に、つねにすでに住まわれているのである。・・・この移動は、ニーチェによる終わりがない「記号の連鎖」としての道徳の「系譜学的」研究に密接に関連している。
形而上学の閉塞は、その研究の起源と目的を現前の中に見いだした。この囲いを問題視した者たち−ニーチェ、フロイト、ハイデガーを含む−は、「抹消の下に」という戦略の必要を明確化する方向に向かった。ニーチェは「認識」を、フロイトは「精神」を、ハイデガーは・・・「存在」を、抹消の下に置いた。ある事物の現前を消しながらもそれが読めるように残すというこの身振りを、デリダは「エクリチュール」と名づける。それは形而上学の囲いからわれわれを解き放つと同時に、その内部で我々を保護する身振りである。
「・・・フロイト思想にすじを付けているさまざまな概念対立のすべては、差延の経済におけるある迂回の諸契機と同様に、それら概念のそれぞれを相互に関係づけている。一方は遅延された他方にほからなず、一方は他方から差異化する(デリダ)」
この二つ、「差異」と「遅延」を合わせてデリダは「差延」と呼ぶ。・・・哲学の運動は必ずしもニーチェ的暴力を必要としない・・・人は差延によって形成されていること、「自己」なるものは「自己」が決して完全に認識できないことによって構成されていること、を単に認識するだけで十分なのだ。われわれは忘却とか偶然への愛とかを培う必要はない。われわれが、偶然と必然の戯れであるのだ。
「デリダ論」 ガヤトリ・C・スピヴァク (ISBN:4582765246)