なぜゾウの群れは地震発生前に山に駆け上って難を逃れたのか

pikarrr2008-06-05

pikarrr
言語コミュニケーションは「規則」だけでは成立しない。「規則」という明文化以上のなにかがなければ、コミュニケーションは成立しない。ウィトゲンシュタインはこれを言語ゲームとよんだ。

wisteria-1
規則が機能するには、同時的なもの異時的なものを問わず、なにがしかの「共同体」の存在が前提となる。

pikarrr
なにがしかの「共同体」だけでは、猿でもありますよ。

考える名無しさん
実際サルやイルカには鳴き声に原始的なコードがあってそれによって或る程度の情報を伝え合っています。

ヒトとそれ以外の動物で全くコミュニケーションの質が全く異なる、というのはおそらく誤りなので、そういう考えは改めないと将来的に科学によって明確に否定されるでしょう。どんなに大きく違うように見ててもその差は連続的なものです。

人間の言語に関する能力のうち大きな部分は生得的なものでしょう。実際、サルに生まれたときから付きっ切りで人間の言語を覚えさせようとしても成功しませんから。
pikarrr
人のコミュニケーションと動物のコミュニケーションの大きな違いは、「反省」にあります。コンテクスト(状況)との関係でコード(規則)が決定されないのに、コミュニケーションが成立する。それが言語ゲームです。それが不思議だな、とウィトはいったのです。

サルデナイヨ
東南アジアの大津波の際、地震発生前にゾウの群れが山に駆け上って難を逃れました。これは年老いたゾウが過去の地震を経験として記憶していて、それの反省から起こった行動だといわれています。過去の経験を記憶しており、それから近い未来を予測し、悪い未来への対処法を仲間に伝えたと考えられます。伝え方は人間と違えど、対処法を自らしめし、仲間を誘導して難を逃れた、ということを考えると、コミュニケーションや「反省」というものの類を行っていたのではないかと考えられます。

動物に対比して人間はこれこれの点で特別である、という話を聞いたとき、人間の能力の分析の部分は素直に受け止めてよいが、比較された動物の分析の部分は文字通り受け取ってはならない。動物は未来を予測しないとか過去を反省しないとか、一言で断言はできないのである。

pikarrr
動物は機械ではありません。高度な知を持っています。でなければ、きびしい自然環境の中で生き残って行くことなどできません。しかし動物の知は、人間が考える知とは異なります。動物の知は、環境との密接な関係の中の試行錯誤によって培われる「体が覚えている」というような「運動の知」です。そして動物はこのような知を伝承もします。同じ種でも鳴き声、行動に地域差があることはよく言われています。動物には進化とは別に歴史と文化があります。

人間が考える知とは、運動の前に「反省思考する知」です。自らがどのような状況にあるのか知り、自らを知り、変化を予期する。このような「反省思考の知」は言語がなければ難しいでしょう。

言語の特徴の一つをとてもアバウトに言えば、世界を自らの中で再現する道具です。その言語記号による内的な世界をシミュレーションすることで目標を設定し、実際に環境に働きかける。

これは独我論的な世界です。ウィトゲンシュタイン独我論を否定しません。そしてそれでも他者とコミュニケーションが成立する不思議を言語ゲームと呼びました。

pikarrr
ウィトの言語ゲーム論のラディカルさは、数学でさえも一つの恣意的な言語世界であることを示しました。それはただ「慣習」によって支えられているあやふやなものだ、ということです。

このような言語ゲームのラディカルさの前では、生物学、心理学、進化論は「思考停止」に追いやられてしまいます。言語ゲームはそこに規則があるように、短絡します。原因と結果を密接に結びつけ、その間に恣意的な「解釈」が行われていることを忘れることで成立します。要するに客観的に確かであるように錯覚する客観主義なのです。たとえばQ「きりんの首はなぜ長い」、A「高い木の草を食べるため」は、典型的な客観主義です。

地震発生前にゾウの群れが山に駆け上って難を逃れました」ということが事実であったとして、ゾウが過去の経験を思い起こして、地震が起こったときにゾウの群れに起こる悲惨な惨事をイメージして、山に駆け上がってゾウの群れが安堵する様子をイメージしたというような「反省」を言語を持たないゾウがおこなったとは考えにくいでしょう。

仮に予期が働いたとすれば、「運動の知」によって、ただ振る舞ったということでしょう。

さらに考えられるのが、この話が言語ゲーム的な客観主義であるということです。ようするに、「地震発生前にゾウの群れが山に駆け上って難を逃れました」という結果を、「ゾウが人間のように高度に思考した」という原因と短絡させ、解釈される。

人の思考は、ペットと親密な話が出来るほどにたくましいものですから。それこそが独我論を乗り越える言語ゲームのたくましさです。

サルデナイヨ
動物が行うのは「運動の知」?と言い切るのはよろしくないと私は考えます。前の例でいいますと、その地域のお年寄りでさえ、ゾウがそのような行動をするのは見たことも聞いたこともない、と言っていたらしいです。つまり、そこのゾウはその大津波で初めてそのような回避行動を取った可能性があるのです。

「運動の知」、つまり試行錯誤で体が覚えている、と言っても、覚える瞬間というものがあるでしょう?先のゾウの例を当てはめますと、その対処を成し遂げた瞬間が覚えた瞬間といえるのではないでしょうか?

そこでは過去の経験を記憶しており、それから近い未来を予測し、悪い未来への対処法を仲間に伝えたと考えられます。伝え方は人間と違えど、対処法を自らしめし、仲間を誘導して難を逃れた。

pikarrr
もうこれ以上は伝説の世界で「語り得ません」が、ただ客観主義的に短絡させようとしすぎているように思います。すなわちそこに「意味」を読み込もうしすぎているということです。

それと、「運動の知」は動物がもつ下等な能力ではありません。再度言えば、言語ゲーム「反省思考の知」だけで、コミュニケーションであり、数学などの学問であり、人間文化が成立しているという錯覚を転倒します。すなわち人間においても基本には「運動の知」があるのです。

それがウィトゲンシュタイン言語ゲームを可能にするために「訓練・実践・行為」が必要であると繰り返しいう理由です。「反省思考の知」が高等、「運動の知」が下等という形而上学を転倒します。

規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)

したがって、「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践なのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)

『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076
wisteria-1
ヒトもサルも、それぞれの共同体から切り離してしまうと、「形而上の概念の集積度」の相違しか残りませんね。

pikarrr
「反省思考の知」が高等であり、「運動の知」が下等という形而上学について続けると、ハイデガーイデア論からつづく、哲学史上の形而上学的な「真実」とは現前性にあると言います。「光の開けの中に存在する」ということです。

「反省思考の知」とは、言語化によって自覚して、提示するということです。だから「人間の知」=理性という真理です。それに対して、「運動の知」は無自覚に行われことで現前化されません。だから「動物の知」で下等です。

このような表象主義、客観主義は現代の科学技術まで繋がっています。科学においての真理とは、言語化し、明らかにすることです。科学は百科事典的な分類によって環境世界を言語化することで、「真実」を開示します。

たとえば動物園の動物、あるいは美術館の芸術作品でも同様ですが、あれが形而上学イデア装置」であるのは、まさに「表ー象=前に-置くこと」ことで真実を開示するように設計されているからです。動物園の動物は生息の環境から切り放されて、動物園という現前によって、形而上学的なイデア性を表します。

現代では、写真、そして映画というメディアの登場以降、形而上学イデア装置」はそちらに移っていきました。いまならテレビによって真実が現前化します。

言語ゲーム論は、このような現前化の真実によって隠蔽された「運動の次元」の存在を指摘することで、現代の科学、メディアを含めた形而上学を転倒する射程の広さを持ちます。

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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板「ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4」 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/からの抜粋です。内容は一部修正しています。

*2:画像元 http://fuchaka.exblog.jp/i8/