なぜ世界は言語記号のようにポイエーシス(制作)されるのか 「陶酔する人工知能たち」その4

pikarrr2008-06-09


なぜ「言語コミュニケーション」は可能なのか


たとえばある人から「バカ!」言われる。「バカ」のコンスタティブな意味は「頭が悪い」であるから、「なんだと!」と怒るべきだろうか。いや、「バカ」「親しみ」の意味で使われることもある。なにかへまをやってので「慰め」の意味かもしれない・・・

これは人工知能「フレーム問題」に近い状況であると言える。人工知能「正確な意味を獲得し、的確に返答する」ことを命ずれば、「バカ!」の前でフリーズしてしまうだろう。しかし人は「フレーム問題」に陥らず、当たり前に言語コミュニケーションをおこなえているのは、まさに先の「なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか」と同じ構図がある。先の説明文を「言語コミュニケーション」にそのまま使うことができる。

まずこの問題設定そのものが視覚系の思考である。先に無時間な視覚像として「結果」「意味が伝わる」が想定されてそこまでの「フレーム」の可能性が解釈されるという筋立てである。しかしこの筋立てでは無数のフレームの出現するのは必然でありフリーズする。ここには聴覚−運動系の思考が欠落している。

人が行為するとは、目的=「意味を理解しよう」、結果=「意味が理解した」「無時間な視覚像」が認知されたあと、事前に最適解が求められるのではなく、行為は「試行錯誤」として行われる。しかしそれが「試行錯誤」でなく、最適解をたどったように錯覚されるのは行為そのものが「無自覚」で行われて「りんごをとった」という結果のみが自覚されるという、視覚系と聴覚−運動系の逆理による。

そしてこのようなスムーズな「試行錯誤」が可能であるのは「訓練・経験」のたまものである。人は「言語コミュニケーション」などの行為することに関して十年以上の訓練・経験をつんだ超ベテラン選手なのだ。

「意味とはなにか」と考えれば、「そもそも意味は存在するのか」といえるだろう。そのはじめに意味があるということが、「視覚系による目的論」思考である。言語コミュニケーションは訓練・経験によるその都度の「試行錯誤」によって試みられているのであって、意味が伝わるのはあくまで事後的な確認でしかない。




「視覚−言語記号系」の無時間性


先のエントリーにおいて、すでにこのような言語認知の特徴を示していた。

行為において「自覚」されるのは「目的(意図)」「あのりんごを取ろう」と、「結果」「りんごがとれた」だけであり、その間の行為そのものは「どのように」行われているかわからない。「ただ行なっている」としかいえない。<目的論>と<無自覚>という特徴は、視覚系と聴覚−運動系の差異に関係するだろう。「目的(意図)」「あのりんごを取ろう」というときに、「結果」「りんごがとれた」という無時間な視覚像が予期されている。そして聴覚−運動系の連続性によって、その間の行為そのものは無自覚に「ただ行なわれる」


「陶酔する人工知能たち」 その3  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080529

<目的論>とは、聴覚−運動系の運動が無自覚で行われ、「あのりんごを取ろう」「りんごがとれた」という「視覚系」のみが自覚化されることで成立している。このような視覚系の特徴として上げられる無時間性は、視覚において特徴的であっても、その本質は言語記号と使用した認知と深く関係している。

すなわち無時間性とは、「言語のように見る」「言語のように聞く」「言語のように味わう」ことで、その間の行為は無自覚化され、<言語記号>=<概念(意味)>として一気に、あたえられることによる。これは聴覚−運動系に対比して、「視覚−言語記号系」と呼べるだろう。




ウィトゲンシュタイン言語ゲームという行為論


このような行為論はウィトゲンシュタイン言語ゲームと呼んだものに繋がるだろう。言語コミュニケーションにおいて、「解釈をいくら連ねても意味は決定しない」。人はただ「規則に従う」ことで、コミュニケーションを成立させている。「規則に従う」とは規則を解釈することではなく、訓練によって習得された慣習の実践である。

ウィトゲンシュタインは、解釈は意味を決定しないことから、「規則に従う」という行為を抽出する。しかしそれがどのような原理によるものであるか、までは言及していないが、先の人がもつ「視覚−言語記号系」による目的論指向の特徴を指摘といえる。

そしてウィトゲンシュタイン「規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。」ということで、言語ゲームの成立を救うが、「慣習([恒常的]使用、制度)」とはなんだろうか。

言語コミュニケーションにおいて<解釈行為>に躓き、どのように解釈するのかと懐疑してしまえば、とたんのコミュニケーションが不可能になってしまう。「バカ!」と親密の表現として行ったつもりが、相手が悪意にとり、怒り出すようなことは絶えず起こっている。言語ゲームが絶えず失敗の可能性にさらされている。

如何にして規則は私に、私はここに於いて何を為すべきかを、教える事ができるのか。・・・如何なる解釈も、それが解釈するものの支えの役は、果たし得ないのである;解釈だけでは、[それをいくら連ねても]それらが解釈するものの意味は決定しないのである。

私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。

規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)

したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)


『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076




「視覚−言語記号系」形而上学


人における「視覚−言語記号系」による目的論指向は、行為が訓練による「試行錯誤」であることを忘れさせて、先に「規則」があり、「意味」があるという錯覚を生み出す。それは、<言語記号>=<概念(意味)>として一気に、あたえられる。

たとえばハイデガーイデア論からデカルト、そしてヘーゲルの近代的な形而上学にいたるまで、西洋哲学の端緒から、視覚が真実の在処であったことを指摘する。「意味」とは突き詰めれば「光の開けの中の」イデアに行き着くと言うことだ。それは、「表ー象=前に-置くこと」という表象主義である。

そして「視覚−言語記号系」形而上学の特徴は、「見る」ことに真実(イデア)を求めることで、<観察者>の位置に立ち、対象とは切り放されて、全体を俯瞰する位置にたつという目的論とともに客観主義である。

このような客観主義的な形而上学は、現代の科学の基礎にもなっている。科学は自然環境に対して<観察者>の位置に立ち、現前にさらけ出し言語記号化することで絶対的な「真実(イデア)」を見いだす。科学技術の「真実」も一つの「試行錯誤」であることは隠される。

ギリシャ人は、認識することを一種の視覚と熟視として構想した。このことは、今日でも、<理論的なもの>という語の日常的な表現によって表されており、そこには眼差しと見ること(舞台−光景)が表明されている。・・・このことが十分な根拠をもち得るのは、ギリシャ人において規則となっている存在の解釈自体においてである。存在の現前と恒存性を意味するから、<視覚>つまり<見る>という事実は特に、現前と恒存性の把握を解明するのに適している。ハイデガー)」

ハイデガーが暗に主張したように、ここで、形而上学の歴史に関するその思想史的な要約に従うなら、存在が視覚との関係で考えられたのは、恐らく西洋哲学の端緒からであった。

自らを保つものは、安定し永続的な仕方で、光の開けの中に存在する。・・・この光の露呈 こそは、ハイデガーに従えば、またプラトンイデア論の中でも輝いている。・・・これとは別に、ハイデガーが付け加える所によると、プラトンイデアによって導入されるのは、人間の有する視覚へ存在の輝きを(そして眼差しの類似化と正確さと充全性としての真理へ、アレーテイアとしての非隠蔽としての真理を)徐々に転換する両義性である。

イデアが知覚と表象へと徐々に変容し、「環帰」し始めるのであるが、ハイデガーによれば、この変容や「環帰」デカルトコギトを性格つけているばかりか、一般的にはヘーゲルにおいて頂点に達する主体性の近代的な形而上学をも性格づけている、と考えられる。・・・コギタチオ(デカルトはまた知覚作用あるいはイデアと呼んでいる)とは、表象作用であり、もっと字義的には「眼前に−置く」ことである。ここから結果するのは、コギトの確信がデカルトに到来するのは、やはり再び、コギトの可視性からである、ということだ。P80-82


ラカンの思想」 M・ボルク=ヤコブセン (ISBN:4588006363

イデアとしての存在の規定は、逆説的にも、現前性としての存在の規定と一体になっている。表ー象=前に-置くことが、視線に対する近さとして現前性の一般的形式であるので、純粋なイデアとはつねに、正面に向かい合って、反復作用の前に現ー前しているイデア「対ー象」(面前にー投げられたもの)のイデア性だからというだけではない。それはまた、まるで時間性の源であるかのように、生き生きした現在をもとにして規定されるような時間性、「源ー点」としての今をもとにして規定されるような時間性だけが、イデア性の純粋さを、つまり同じものの無限の反復の開始を保証することができりからである。P120


「声と現象」 ジャック デリダ (ISBN:4480089225




水族館という「視覚−言語記号系のイデア装置」


たとえば水族館にいる色とりどりの魚をみていると、小さな水槽をもくもくと右から左、左から右と繰り返しまるでよくできたおもちゃのようで滑稽である。水族館は「視覚−言語記号系」の無時間な世界である。言葉をもつものが「〜として見る」ことでフレームをつくり、語らないものは像でしかない。水族館は語る(視る)者が見やすいように無時間化されたフレーム、すなわち言語化されたコンテクストをつくる「視覚−言語記号系のイデア装置」である。

魚は機械ではない。実際の海においては彼らの運動系の知覚は思う存分発揮され彼らの高等さが明らかになるが、水族館という無時間世界ではその運動系の知覚は無意味化される。それに対して人は海の中での運動系の知覚の低さは単なる「うすのろ」でしかない。広大で変化し続ける物理環境では「視覚−言語記号系」はたいしたやくにはたたないだろう。

そのために人は自然環境に能力を拡張する「機械」をもちこむ。カメラは「視覚−言語記号系」の拡張であり、未知の世界に言語記号世界の侵入を意味する。そしてその瞬間に、「設計図」がひかれ、設計図にそって運動系を拡張した動力機械が導入され、環境は制作される。それは自然環境をイデア的に無時間することを意味する。

たとえば舗装される前の道は、でこぼこでつまずぐ、雑草が生えて荒れる。荒れた道を歩くとき、ただ無自覚に歩く(行為する)ことはできない。足下を気にして、いかに歩くかという行為を自覚化しなければならない。それを舗装することで、歩く行為に無自覚になり、考えごとをしながら、またお喋りをしながら通行することが可能になる。すなわち舗装された道は、道の意味=「通行する」という真実(イデア)を開示する。そしてあまりに真実でありすぎてもはや疑うことも忘れられるのだ。世界を無時間化することでイデアを開示するのである。




「真理を生産する」ポイエーシス空間


ここで、再度、「意味とはなにか」と考えれば、意味が「視覚−言語記号系」による形而上学的な「錯覚」であるとしても、現に意味は外部に開示されている。ギリシア人はこのような「真理(イデア)を生産すること」、それによって「人間の実在や行動への世界を開示する」をポイエーシス(制作)と呼んだ。

彼らギリシア人は、ポイエーシスとプラクシスを峻別していた。いずれわかるように、実践の中心にあるのが、行動においてじかに表明される意志という考え方であるのに対して、ポイエーシスの中心にある経験は、現存へと向かう生産、つまり、そこで何かが非存在から存在へ、隠された闇から作品が発する充実した光へと移行するという事象だった。

要するに、ポイエーシスの本質的な性格とは、その実践的で意志的な過程の局面においてではなく、むしろその存在において、ヴェールを剥ぎとるという意味での真理の様態だったのである。・・・一方、アリストテレスによれば、ラクシスは、生きた存在としての人間の条件それ自体に根ざしていた。いいかえるなら、生を特徴づける運動の原理にほかならなかった。ギリシア人がポイエーシスとプラクシスを区別することによって意味しようとしたものは、まさしく、ポイエーシスの本質は意志の表現とは無縁であるということだ。むしろポイエーシスの本質は、真理を生産すること、およびその結果として、人間の実在や行動への世界を開示することにある。


「中味のない人間」 ジョルジョ アガンベン (ISBN:4409030698

ポイエーシス空間の特徴は、真理すぎて無自覚化することにある。道路は道路以外なにものでもないわけだから、歩くことも無自覚化される。ただはじめに目的の場所を設定すればあとは身体が歩いてくれる。すなわちポイエーシス空間は「ハイウェイ空間」である。

椅子は疑えないほど椅子であり、手摺りは手摺りである。水族館において魚は魚であり、そして職場において身体は「労働する身体」である。そしてその先には「私(コギト)」は限りなく「私」でなければならない。

そして、「真理を生産する」ポイエーシス空間は、行為を無自覚行うようにアフォードする。椅子は椅子であって、座っても大丈夫か?というような懐疑は排除される。そして見方、聞き方、触り方、歩き方など、行為はそのようなポイエーシス空間との関係で<訓練・経験による習得>が行われる。行為はかつての自然環境で習得されたものかわっているだろう。




「物象化」された「商品の集積」世界


現代は「視覚−言語記号系装置」が全面化することでポイエーシスな空間が包囲している。たとえばアガンベンによるとかつては芸術作品は創造的な「プラクシス」であるとともに、「ポイエーシス」でもあった。しかし近代の資本主義社会において、ポイエーシスが「大量生産」されることで、芸術作品は創造的であること、すなわち真理を解体する創造という「プラクシス」に先鋭化された。

さらに現代のポイエーシス空間の特徴を指摘したのは、マルクスだろう。現代のポイエーシス空間とは、「物象化」された「商品の集積」世界である。すなわち商品の世界とはイデオロギーが外部へと具現化された世界であり、その中で人は行為の訓練を重ねることで「実用的・現実的な活動」を行っているのだ。

資本主義社会では主体は解放され、自分たちは中世的な宗教的迷信から解放されていると信じており、おのれの利己的な関心にのみ導かれた合理的な功利主義者として他者と関係する。しかし、マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商品)それ自体がおのれの場所を信じている、という点である。つまり、信仰や迷信や形而上学による神秘化は、合理的で功利的な人格によって克服されたかのように見えるが、じつはすべて「物どうしの社会的関係」の中に具現化されているのである。人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体が人間のために祈っているのだ。これは同時に、ラカンの基本的な前提の一つでもあるように思われる。信仰(信念)は内的なものであり、認識は(外的な手続きによって確証しうるという意味で)外的なものだ、というのが一般的な定式であるが、むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。P55


イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイ ジジェク (ISBN:4309242332

(つづく)
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