キモメンはなぜモテないのか

pikarrr2008-06-30


彼女がほしければ友達をつくろう


今日は特別に彼女の作り方を教えましょう。とても簡単なことです。彼女を作るにはまず友達を作ることです。考えればわかることですが、男女が一対一でいきなり知り合うというのはとてもむずかしい。多くはなんらかのつながりから知り合うのです。だから彼女を作るとは、どれだけ友達関係を持っているかと比例します。友達を作ると必然的に女性と関わる回数が増えます。なぜなら友達も同様に女性と知り合うことを望んでいるわけです。そして始めは複数対複数の方が始めやすいのですから。

あるいはナンパも友達関係と強く関係します。一対一のナンパは難しい。複数対複数でナンパする方が女性は安心します。しかしそれだけではなくて、一対一でも友達がいるとやりやすい。なぜならネタとしてナンパできるからです。失敗しても、「昨日、ナンパしたんだけど〜」と友達に話して失敗も笑い話にするだけで、「勇気があるな」と尊敬されます。「このナンパはネタだ」というスタンスで望むことでナンパが気軽に行えます。

女性に対する積極性も友達がいるという事実が勇気づけてくれます。たとえばタレントがテレビの撮影だと、大胆に行動できるということに似ている。それはまなざしを背負うとこと、超越論的なまなざしの効果です。

女性にとっても、その男性そのものだけではなく、相手が社会的な関係においてどのような人かを知り合いたいものです。お金持ち、学歴があるなどの打算的なことだけではなく、相手の社会的関係とつながることで、繋がりが密接にそして継続的なものとなります。遊びの女性に自分の友達や知り合いを紹介しないものですから。

一対一の関係というのは、「他者性」が剥き出しになり、恐怖の体験です。ウィトゲンシュタイン言語ゲームでいえば、「暗闇の中の跳躍」です。だからそこには社会的なつながりや超越論的なまなざしという、補完装置が求められるのです。




容姿という商品


容姿が悪いからもてないというのは実はいいわけで、多くは彼の社会関係の乏しさに関係しています。「容姿が悪い」というのは一つの形而上学であり、そこに絶対的な「不細工性」という基準があるように語りますが、そんな単純なものではありません。

たとえば容姿は世代的な流行が大切です。エビちゃんは確かにかわいいですが、エビちゃん風の女性は世代な流行を身につけていることでかわいく見えます。これも一つの社会的な関係です。男性でも流行風のファッションをしている人は社交性が高く、友達が多い。友達がいると、自らの世代のファッションや行動を身につけるようになります。だからそれは女性に安心を与え、好かれやすいのです。

容姿を気にするもてない男の問題は、むしろ反転して相手の容姿にうるさいということでしょう。これは基本的に社交性が低い人の特徴です。外見で人を判断するから、外見で判断されることに過剰です。さらに、容姿に過剰な男性の特徴に処女信仰、そのさきにロリコンというのがあります。これらの特徴は女性を消費する対象として見ています。これは一概に悪いわけではありません。アイドル、グラビアなどを楽しむ、あるいは最近は女性のイケメン好きというのもありますし、消費対象として異性を楽しむことはあります。

簡単にいえば、「容姿」というのは、資本主義経済における消費促進のために生まれた商品なのです。だから非モテが容姿を重視する社会関係の在り方はマルクスでいう物象化、社会関係が物(消費)の関係で代替されることです。

オタクがもてないと言われるのは基本的に、社交性の低さと関係するでしょう。オタクコミュニティというのは虚構的なもので、直接的な人間関係というよりも、物との関係によって代替させて社会関係を作っているので、友達は少ない。もともと友達が少ない、人とつき合うのが苦手な人がオタクになりやすいとも言えます。




承認されない人とは誰かを承認しない人


最近、「承認の配分」のような話もありますが、ここでいう承認とは多様なデザインの商品からどれを選ぶか、それによってそれを消費する自らが承認されると言う意味で、自らがどの商品に選ばれるか(承認されるか)と対応しています。このような承認の在り方は、資本主義社会におけて、消費を促進する基本的な戦略です。

「非承認型社会」というのは、それまで存在した肩書きを媒介とする擬似的な承認や地域コミュニティにおける承認が存在を消しつつある今、それらを補完し代替的に個々人に対し承認を与えなくてはならない存在である「所属コミュニティ」において、適切に承認が行われていない(可視化されていない)現状をさした言葉である。

この国は大きな社会や血族・地域集団が承認(疑似含む)を与える時代を終えた。しかしそれを代替すべき新しい承認の在り方、つまり各々が所属しているコミュニティ内で個人が承認されること(厳密に言えば承認を認識すること)がない。それが現状の一番の問題である。承認の可視化がされておらず、そのために新しい個人の在り方に対し「承認」が追いついていない現状が、「非承認型社会」なのである。


非承認型社会「日本」へようこそ - Thirのはてな日記 http://d.hatena.ne.jp/thir/20080627/p1

しかし彼女を作る場合には、それとは別の通路を作らなければいけません。彼女を作るのは「容姿が悪い」というのは実はそれほど問題ではありません。回数を重ねると、気持ちが合うような相手と出会う。するとその相手といることが楽しくなる。恋とはうまくできたものでそのような錯覚を生み出すように出来ている。するとなんだかんだで彼女が出来るものです。ここで起こっていることは、自らの容姿へのこだわりを越えることは、また相手に対しても言えます。承認されない人とは誰かを承認しない人です。




みんな精神的に「男前」すぎる


現代の若者の社交性の低さは、現代は男も女もみんな精神的に「男前」すぎるということでしょう。だから他者と関係がめんどくさく、他者回避(動物化)する。そして消費関係に承認を求める、どの商品を選んだのかによって、特別な商品に囲まれることで自らが選ばれる。

このような承認はただ所有するだけではなく、ネットやオタクという幻想のコミュニティによって、「おまえもエヴァ好きなの?おまえすごいもの持ってるな。」という形で承認されていました。そこに新たなつながりの可能性として、電車男という神話がありました。

しかしネット、オタクに「さびしさ難民」が大量に流入して、流動性があがり、ネット、オタクコミュニティの「底が抜けて」しまいました。これらが「加藤」によって明らかになったことです。いまやネット・オタク周辺はアリの巣を突いたような状態です。

「社会(象徴界)」は本来「底が抜けている。」他者とのコミュニケーションの同一性は自明ではない。ラカンによる、乳幼児期の幼児的全能感=母子の想像的関係から、「父親の審級」による去勢によって、象徴界を獲得する。すなわち自分の思い通りに行かない他者とコミュニケーションしなければ、何事の達成できない、ことをしる。しかし現代は、「父親の審級」による去勢が行われず、幼児的全能感から抜け出せず、高い「プライド」、低い「自己信頼」によって、「脱社会的な存在」となる。


宮台真司 サイファ 覚醒せよ!」 (ISBN:4480422595

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