なぜ資本主義は「創造」を強迫するのか

pikarrr2008-06-29


創造と労働 人間の生産活動の二重化


創造と労働の違いとはなんだろうか。創造とは他者との差異により見いだされる自己、だれとも異なるオリジナリティ(独創性)を見いだすことにある。創造が破壊的であるのは従来の他者の価値を破ることから生まれるからだ。労働は社会的な貢献という大儀をもつが、行為そのものは「末端」である。それがすぐに社会の変容につながるわけではなく、日常の反復の中にある。そして反復の中で訓練され、技能が身についていく。そのような反復の中で充実感が沸き上がる。

このような創造と労働の分裂が社会的に全面化したのはそれほど古いことではない。近代化の中で「科学的なもの」の発展が進められたことに関係する。「科学的なもの」とそうでないものが分裂した。このような分裂は、「分業」と関係する。「科学的なもの」は分業可能であり、大量生産され、剰余価値(資本)を生み出す。

製品とは、「再現可能」によって「技術的生産」される。すなわち労働によって大量生産される。それに対して芸術作品は再現されない「唯一性」として創造される。

十八世紀後半における最初の産業革命にはじまる近代的技術の発展と、ますます広範で疎外的なものとなる労働の区分にしたがって、人間が生産した事物の存在のステータスや様態は、実際に二重になる。一方では、美学のステータスにしたがって・・・芸術作品があり、他方では、技術のステータスによって・・・・狭義の製品がある。芸術作品という特殊なステータスが打ち立てられたのは、独創性(もしくは真正性)における美学の発生以来のことなのである。

労働の区分から出発して考えると、人間の生産活動の二重のステータスは、・・・美の領域における芸術の特権的ステータスは、手の労働と知的労働がいまだ分化しておらず、それゆえに生産活動が完全性と唯一性を維持している状態の残存であるということになるだろう。その一方で、労働の極端な区分という状態から生ずる技術的生産は、本質的に代替可能で再現可能なままである。

人間のポイエーシス的活動の二重のステータスの存在は、いまやあまりにも自明のものにみえるので、われわれは芸術作品が美的次元に入るのが比較的最近の出来事であること、そして・・・人類の文化的生産が、本質的なかたちでその様相を一変させたということを忘れてしまう。この分裂の最初の帰結として、修辞学や教則集といった学、工房や美術学校といった社会的機関、文体−様式の反復、図像学の継承、文学的後世に求められる文彩といった芸術的要素の組合せが、それぞれ急速に衰亡したことが挙げられる。P89-91


「中身のなか人間」 ジョルジョ・アガンベン  (ISBN:4409030698




生産と消費の相補性


このような近代における「分裂」は、人間/動物という伝統的な形而上学の二項対立によって思想化された。「科学的なもの」は容易に還元される低級品、身体、動物であり、されないものは容易に還元されない精神、人間という二元論である。その典型例がデカルト心身二元論とである。

すなわち「労働」は分業のために還元された労働力であり、製品そして資本を生み出す。労働では誰でもよい身体であり、動物化である。それに対して、「創造」は分業されない労働力であり、自らが誰であるかという精神、人間の活動である。

マルクスブルジョア/プロレタも心身二元の構図にある。ただマルクスは労働を人間存在の根源とおくことで、精神−身体の構造を転倒させた。しかし重要なことは対立そのものは継承されていくことである。

たとえばマルクスは労働による生産に注目したが、大量に生産された商品はどこへ向かうのか。資本主義の動力は決して資本家の卑しい欲望にのみあるのではなく、大量の商品を飲み込む巨大な欲望が必要なのである。それは動物化した労働者がただ生きるための「欲求」として消費するだけでは不十分である。「人間化」して自らの存在意義(承認)を「欲望」する終わりない消費が必要なのである。

たとえば大量生産の象徴であるフォード社のオートメーションシステムは大衆に安価に車を提供し、成功した。その後、フォードがより高い効率をめざし一車種にしぼり生産したのに対して、後続メーカーが車種を多様化させることで、フォードは苦戦を強いられることになった。いまではフォーディズムとは単なる大量生産ではなく、アメリカに人類初の大量消費社会をもたらしたものとして知られている。

マルクスがいうように労働者は労働的身体として疎外される存在としてだけでなく、消費することで自らの存在を追求する創造行為を欲望する存在でもあることが求められる。そのときにはじめて資本主義システムは発展し続けることができるのだ。労働と創造という人間の生産活動の二重化、そして動物化「人間化」の対立は生産と消費という資本主義の相補的なシステムとして作動する。




創造と労働の分裂を産出する


現代において、労働が機械化されることで、大量生産が無人で、安価で行われるようになっている。そのために一般商品の価格は下がり、創造的な付加価値が高価になる。このように創造的な消費は創造的な生産を促し、労働者は創造的であることが求められている。すなわち労働と創造の境界は解体されつつある。

さらにネット上では無償で労働が行われる非金銭経済であると言われる。「総創造社会」では生産者と消費者の境界は解体する。ネットやオタクは創造の生産と消費をみずからに取り込み活性化させている。

このような労働と創造、あるいは生産と消費の境界の解体は、資本主義の勢いを衰えさせるどころか、むしろ活性化している。大量生産がより効率化することで、より多様な創造を吸収することが可能になっている。たとえば現代において自己承認、「なにものでない自らを追求しろ」「夢をもて」という創造は、「働け」という労働よりも強迫的になっている。

あるいはネットが非金銭経済と言われようと、金銭経済の外部であるのではなく、相補的な関係にある。たとえばネット上の多くのサービスが無償だからといって提供する側は非営利ではない。サービスの生産に対して主に広告によって利益をえている。その広告費は人々の消費の中に混入されている。ネット上の非金銭経済はITだけでなく、産業そのものを活性化させている。

このような傾向は、現代の思想においても見られる。形而上学的二元論は、フーコーの規律訓練権力と生権力、さらにネグリの帝国とマルチチュードのように語られ続けている。(機械的な)労働、「科学的なもの」動物化(身体化)が全面化、透明化するイメージで語られようと「対立」構図そのものは継続されている。なぜなら資本主義システムが駆動する限り、創造と労働の分裂は産出され続ける、この対立こそが資本主義の原動力だからだ。

孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神は獅子となる。・・・わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。新しい諸価値を創造すること−それはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目ざして自由をわがものにすること−これは獅子の力でなければできないのだ。

小児は無垢である、忘却である。新しい開始。挑戦、おのれの力で回る車輪、始源の運動、「然り」という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。


ツァラトゥストラはこう言った ニーチェ (ISBN:4003363922

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