なぜ「国力論」は語られなかったのか 

pikarrr2008-07-16


「国力論 経済ナショナリズムの系譜」 


「国力論 経済ナショナリズムの系譜」中野 剛志(ISBN:4753102610)を読んで思ったことは、これは思想だろうか、ということです。「経済に国力が重要である」というあまりに当たり前のことが書かれています。それでもこの本がおもしろいのは、このことが近年、思想として語られてこなかったということです。この欠如を指摘することにこそこの本の意味があります。

国家政策の指針となるべき政治経済学は、二代学派である経済自由主義マルクス主義のいずれにおいても、ナショナリズムに対して否定的な姿勢をみせている。・・・政治経済学には、・・・第三の思考様式がある。それは「経済ナショナリズムと呼ばれている。

経済はネイションに埋め込まれているのである。経済発展を推進し、その方向性や様態を決定する原動力はネイションの力にある。・・・国家政策の目的は、個人の経済厚生の向上や資源配分の効率性ではなく、ネイションの力の形成、維持あるいは増進にある。経済政策のターゲットは、国富そのものではなく、国富を産み出す源泉である国力に向けられている。


「なぜいま「経済ナショナリズムなのか 「国力論」中野剛志」  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080624#p1

では、なぜ国力は語られないのか。それは、だれもが知っている忌まわしい過去のせいでしょう。近代に国民国家が成立してから、帝国主義から世界大戦、ナチス国家社会主義と、国家権力は殺戮を繰り返してきました。そしてそれは現在もかわりません。

ここで「政治的なもの」に関する言説の分裂が起こっています。実働的な「政治的なもの」に関する言説と、思弁的な思想としての「政治的なもの」。思想家は政治とは国家間の競争であり、いかに国力は向上させるかが重要である、というあまりに当たり前のことを見事に迂回しています。だから「国力論」の著者が現役の官僚であることは象徴的です。




<帝国>論におけるポストモダンと経済学のハーモニー


特に脱構築が正義である」というポストモダン思想によって思弁的な思想はきわまります。そしてこれらの言説は見事に経済学主義の言説とハーモニーを奏でてつつ、「フラット化している/すべきである。そこに自由と平等がある」と語りかけてきます。ネグリはそのハーモニーをみごとに<帝国>へと止揚しました。

これらは、国民国家はいまも政治の中心単位であり、国家間は熾烈な駆け引きの中にあるという実働的な場であるという事実を隠しています。

ポストモダニズムポストコロニアルリズムにとって大切な概念の多くは、現在の法人資本や世界市場のイデオロギーと完全に呼応している。・・・差異(すなわち商品、住民、文化、等々の差異)は世界市場において、無際限に増殖しているようにみえる。それは固定された境界を何よりも暴力的に攻撃している。それは無際限の多数多様性によって、いかなる二項対立的な分割をも凌駕するのである。

ポストモダニズムは、じっさいのところ、それによってグローバルな資本が作動する論理なのである。マーケティングは、おそらくポストモダニズム理論ともっても明快な関係をもっており、資本主義のマーケティング戦略は、その用語ができる前からずっとポストモダン的なものであった、と言うことさえできるだろう。他方では、マーケティングの実践と消費者による消費は、ポストモダニズムの思考を発展させるための最上の土壌である。P198-200

資本主義市場が、内部と外部を分割しようとするあらゆる企てにつねに逆らいつづけたきたひとつの機械であるということをここで思い起こしておくのが有益であろう。・・・そして資本主義市場のこうした傾向の到達点は、世界市場の実現によって画されることだろう。・・・私たちは世界市場の形態を、<帝国>の主権の形態を完全なかたちで理解するためのモデルとして使用してもさしつかえないだろう。P246


<帝国> アントニオ・ネグリ マイケル・ハート (ISBN:4753102246



物象化と差延


マルクスの思想はドイツ・イデオロギーISBN:4003412435)の前後で分断されているといわれます。前期の疎外論では、疎外のない状態としての「類的存在」があたかも存在するように語られることが、実働的な革命をめざす共産主義運動とかけ離れた思弁的であると批判されました。

それを乗り越えたるために考えられたのが、後期の「物象化論」です。ここでは最初に理想状態があるわけではなく、自然と人間の関係は実働的な生産活動を介してともに変化するものとされています。

かつてマルクスは、「精神と自然との統一」=人間、という範式で観じ、かの二元的な対立性の統一を「人間」に求める構図を採っていたが、『ドイツ・イデオロギー』とそれ以降では、「人間と自然との統一性」の過程的現場が「産業」に看る。今や、主観性と客観性・・・等々の二元的対立性を実践的に止揚・統一する場が「産業」に定置される。

人間と自然との産業の場における統一という言い方をすると、さながら、人間というものと自然というものとがまずあって、事後的に両者が結合されるのであるかのように響くが、生態系的な関係の第一次性こそが真諦である。自然は産業の場で人間と媒介されてはじめて現前的自然として現存するのであり、人間は産業の場で歴史的・現実的・実践的に自然と媒介されてはじめて現に在る人間として存在しているのが実態である。P43-46


「物象化論の構図」 廣松渉 (ISBN:4006000391

しかしここには大きな欠落がないでしょうか。では共産主義へといたる必然はどこにあるのでしょうか。マルクスが到達した物象化論は歴史(時間)と空間の差異化の運動という意味で、デリダ差延と類似性をもちます。ここに現れるのは、思弁的に実働性を追求すると「確かなもの」が解体されるということです。




「慣習」と国力(経済的ナショナリズム


実働的なものとはなにかと考える場合に重要になるのが、後期ウィトゲンシュタインの思想です。ウィトゲンシュタインは、実働的な場=言語ゲームにおいて、コミュニケーションの成立は「規則」がありそれを「解釈」することで成立しているのではないと言いました。これはマルクスデリダと同様の地点です。しかし現にコミュニケーションが成立するのは、ただ「規則に従う」ためだと言いました。ここに実働の本質があります。

如何にして規則は私に、私はここに於いて何を為すべきかを、教える事ができるのか。・・・如何なる解釈も、それが解釈するものの支えの役は、果たし得ないのである;解釈だけでは、[それをいくら連ねても]それらが解釈するものの意味は決定しないのである。

私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。(201)

したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)


『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076

ウィトゲンシュタインがいうのは、実践とは「規則に従う」ことであり、慣習の訓練であることです。ヒュームはウィトゲンシュタインに先立ち、そしてヘーゲルに先立ち、「慣習」が社会的な秩序の源泉であるといいました。そして先の「国力論」本において、国力論(経済的ナショナリズム)の創始者としてヒュームが挙げられているのは偶然ではありません。 

人は、社会の中に生まれ落ちる。そして、成長の過程で、社会が共有する象徴や記号(特に言葉)やルールの意味を習得することによって、他人とのコミュニケーションや、集団行動や社会生活を営むことが可能になり、一人前の人間となる。・・・そのような象徴や制度の蓄積のことを、ヒュームは、「慣習」と呼んだ。

ヒュームにとって労働生産性の向上は、人間の進歩あるいは人間の能力の拡大と切り離しては考えられず、そして労働生産性「教育、慣習そして先例」によって改善されるものであった。・・・労働は、技能、知識、道徳そして精神から構成され、労働者が技能と知識を獲得するためには時間と経験が必要である。・・・そして人的資本としての労働は、社会や制度の発展の影響を受けて発展し、経済発展の原動力となる。


「国力論 経済ナショナリズムの系譜」 中野 剛志 (ISBN:4753102610




実働的な倫理とは「自由と平等」に躓くこと


カントは、ヒュームのいう「確からしさ」の源泉としての「慣習」があまりにあやふやなものでしかないという批判から、純粋理性批判を展開しました。そしてカントがその理念(イデー)の延長として、<帝国>の原型である「世界共和国」を最初に思考しましたのもまた偶然ではありません。ここにはすでに、「政治的なもの」に関する実働的な言説と、思弁的で理念的な言説の分裂が起こっています。

「国力論」が示すのは、これらの対立や思弁的な理念への反論ではありません。実働的であるということは、美しい言説に絶えず頑固さをもって「慣習」が回帰し躓かせつづける。「経済はネーションに埋め込まれている」とはこのような意味でしょう。あるいは「帝国はネーションに埋め込まれている」、あるいは「リベラルは慣習に埋め込まれている」といってもよい。だから「慣習」を軽がると飛び越える言説に注意する必要がある、ということです。そこでは「自由と平等」に躓くことが倫理でさえある。

しかしこの「慣習」象徴界のように超越論的なものと考えてはいけません。慣習とはたとえば日本人なら魚を箸で食べるようなことです。骨と頭だけ残してきれいに魚を食べられる人もいれば、多くの身がついたままぐちゃぐちゃになってしまう人がいる。これは実践的な訓練という「時間と経験」の問題です。人は魚を1匹食べる毎にその魚を食べる前よりも魚を食べることがうまくなっているということです。
*1