なぜ犯罪が暴力化するのか 動物化論の限界 その1

pikarrr2008-07-22


1)欲求、欲望、享楽


まず欲求、欲望、享楽の違いについて、わかりやすく「食」を例に説明しましょう。

欲求・・・「動物」的。空腹だ→食べた→満腹だ。

欲望・・・「人間」的。みんな(他者)が望むものがほしい。彼が食べているラーメンうまそうだいやテレビでやっていた寿司がうまそうだいやおしゃれなレストランで食べると味が違うよね。たくさん頼んでちょっとずつ食べるか・・・と終わりがない。たかだが60億人で地球の資源の枯渇が問題になっていますが、人も動物のように欲求するだけならこのようなことはおこらないでしょう。

享楽・・・「狂人」的。すべてのものは食べ飽きた→あと食べてみたいものは人肉だけだ。享楽は近親相姦など社会的なタブーに関係します。より日常的にいえば拒食症や過食症など。




2)社会学的な動物化


動物化とは、豊かな社会では容易に食料が手にはいるために、もうあれを食べたい、これを食べたいという、食への欲望がわかない。欲望するまえにすでに食が満たされてみたされてしまう。それは、もはや動物が欲求をみたすようだ、ということです。これはヘーゲル精神現象学解読からコジェーブが考えた概念です。

だから動物化「環境」と密接な関係にあります。動物化は欲望する前に速やかに満たされる「環境」によってうまれます。たとえばマクドナルドでは規格化されたものを安価で速やかに提供されます。人々はまるで「家畜」のように腹を満たしている、と表現されます。ここでいうマクドナルド」とは市場原理主義による「形式的合理性」のメタファーになっています。

なぜ、市場原理主義が貧しい形式的合理主義・マクドナルド的な再帰性に陥るのか・・・マクドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性においては、質より量を重視する。

マクドナルド化は、形式的合理性の内部に留まり、実質的合理性を欠く事態を指す。ここから形式合理性の内部で反射的に振る舞うマクドナルド的主体」という概念が導き出される。哲学者の東浩紀は、この「主体のマクドナルド化動物化という概念で記述している。動物化とは、・・・通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動するマクドナルド的主体」を指すものと考えられる。


ネオリベラリズム精神分析 樫村愛子 (ISBN:4334034152

東浩紀がオタクは動物化しているというのは、大量の快楽情報に満たされて、オタクは欲望ではなく、欲求によって満足している、ということです。豊かな社会、「環境管理技術」が発達した社会では人々が動物化します。このような意味での動物化論に反論する人は少ないと思います。これを動物化についての消極的な意味として社会学的な動物化論」と呼びましょう。




3)政治的な動物化


動物化論のもう一つ面として、人は動物化することで充足して生きていけるだろう、ということです。これは動物化の積極的な意味として「政治的な動物化論」と呼びましょう。

しかし「政治的な動物化論」を考える場合には、享楽の問題を考えなければなりません。豊かな社会では食への欲望が希薄化し、欲求によって充足されるというときに、すでに享楽に近接しています。家畜のように充足することに耐えられなくなるとき、その孤独から強く他者を求める。しかし他者への通路としての欲望が希薄であるために、過剰に「食」を求めてしまう。そこに拒食症や過食症などの自傷的な過剰としての享楽が現れます。




4)「不可能性の時代」


大澤は、戦後日本を、「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」と分類しました。

「理想の時代」・・・1945年から1970年まで。モダン、大きな物語、欲望

「虚構の時代」・・・1970年からオウム事件が起きた1995年まで。ポストモダン大きな物語の凋落、小さな物語、シミュラークル

「不可能性の時代」・・・1995年から。動物化、享楽


なぜリストをカットするのか? 大澤真幸「現実の向こう」  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050318#p1

欲望とは他者の欲望を欲望することというように、社会性と深く結びついています。みんなが望むものがほしい、ということです。「理想の時代」から「虚構の時代」へと、大きな物語が凋落するとは共通基盤としての社会性が希薄化することです。すると欲望する「みんな」が見えなくなります。

それとともにシミュラークル(虚構)化します。なぜなら欲望は「リアリティ」に関係するからです。リアリティという「正しさ」は社会性によって支えています。みんなが正しいということが正しいという構造を持ちます。そしてその正しさへと人々を引きつけるのは、みんなが望むもの(対象a)がほしいという欲望なのです。

だから欲望の希薄化は共通基盤としての確かなリアリティを解体し、それぞれの場によって多様なリアリティが形成されるというシミュラークル(虚構)化します。

<対象a>は、「快感原則」に支配された心的装置の閉回路の裂け目として、つまりその閉回路を「狂わせ」、無理やり「世界に眼を向けさせ」、世界を考慮に入れさせる裂け目として、実際に機能する。<対象a>は現実を支える役割をするというラカンのテーゼは、そのような意味に理解しなければならない。われわれが「現実(リアリティ)」と呼ぶものへと至る道は、「快感原則」の閉回路の中の裂け目、その中心にいる邪魔な侵入者をかならず通過するのである。心的経済において「現実」の占める位置は、「過剰」の位置、つまり心的装置の自己満足的な均等の自足の内側から妨害・阻止する剰余の位置である。


「汝の症状を楽しめ」 スラヴォイ・ジジェク  (ISBN:4480847081

大澤が「不可能性の時代」というのは、より確かなリアリティをもとめて、欲望(象徴界)の向こうの享楽(現実界)を求めてしまうということです。これは不可能であるが故に過剰で、「暴力的」になります。その例として、オウム真理教の虚構(ハルマゲドン)と暴力的現実、あるいはリストカットのような自傷行為(トラウマになりかねないような暴力的な現実へあえて逃げていく例。痛み以上に直接的な現実はない。)などがあげています。

そもそも欲望は享楽を回避する装置として作動しています。たとえば人々はお金を欲望しますが、なぜお金がほしいのか。それは単に衣食住を満たすためではありません。その先にある「充実したなにか」を求めてです。しかし「充実したなにか」とはなにかはわかりません。お金という欲望は、みながお金を求めているのだからその先に「充実したなにか」があるのだろうと、延滞し続けることで、人々を社会的な活動に向かわせています。これが欲望の機能です。

しかしこのような欲望の機能が希薄化すると、直接的に「充実したなにか」を求めてしまいますが、それは決して到達しない「不可能性」です。それを過剰に求めることは狂気であり、独我的に社会性からの逸脱、破壊へと向かいます。それが享楽です。

「理想」から「虚構」へという転換は、反−現実の現実からの乖離の度合いが、つまり反−現実度が、大きくなる過程だといえます。・・・虚構は現実から乖離し、逃避する度合いが大きく、理想は現実への距離がより小さい。・・・つまり戦後に流れを見た場合、参照点となる「反−現実」が、現実からの乖離の度合いを時間とともに大きくしてきた、と結論することができるわけです。

ところが、それにつづいて現在僕らが見ている現象は、こうした傾向、つまり現実から次第に乖離していくという傾向が反転させてしまうような現象ではないか。つまり、現実「からの」逃避が、現実「への」逃避へと転換しているように見えるわけです。しかも「現実への逃避」と言ったときの「現実」というのは、普通の現実ではない。「現実の中の現実」「現実以上の現実」、現実のまさに現実性を体現しているような激しく、暴力的な現実です。P123


「現実の向こう」 大澤真幸 (ISBN:4393332288




5)暴力化する社会


たとえば90年以降に犯罪が暴力化していると言われますが、実際に若者の犯罪率は上がっていないこととは関係がありません。実際は「理想の時代」の方が犯罪率は高い。それらは社会的な理由が明確です。犯罪をおこす人には貧しい、社会的な疎外などの犯罪にいたる理由があると、みんなが信じられました。

しかし「不可能性の時代」の犯罪は、そのような社会的な理由が見えない。最近の少年の狂気的な犯罪、たとえば最近の秋葉原無差別殺傷事件など親が厳しい、派遣がつらい、そりゃわかるけど、いきなりあんな凶行するのか、と意味が不明です。

昔はヤクザや不良など、危ない格好をしている人を避ければ良かった。しかしいまはむしろ危ない格好をしている人は、あえて怖くみせているという自覚があるから大丈夫です。むしろ普通の格好をしている人こそが怖い。電車で隣のおとなしそうなサラリーマンがいきなり暴れ出すことがありえる。するとなにを信じていいのか、人々は日常の狂気に疑心暗鬼になる。

たとえば、近年、人々は「怒る」のではなく、「キレる」と言われます。怒るのは感情的になりながらもそこに「正しさ」があり、「間違ったこと」への反論としての意味があります。「おまえそれは違う(正しくない)だろう!」とコミュニケーションが成立していることが前提とされています。しかしそのような社会的な「正しさ」が希薄化すれば、「おまえそれは違う(正しくない)だろう!」と怒ることがむずかしくなります。このようなコミュニケーション(交渉)の欠落は、突現の暴力表現へと短絡してしまいます。それが「キレる」ということです。

秋葉原無差別殺傷事件の衝撃が続いている。あの事件の衝撃の大きさはなんといっても犯人があまりに「普通」であるということだろう。このような衝撃的な事件は社会的な不安を引き起こし、人々はその原因を求めようとする。それは非日常的で異常であるほど安心する。「自ら」とは関係がない別の異常な世界の出来事となるからだ。

親の過剰な期待、派遣での厳しい待遇、あるいはイジメ、そしてオタク、彼女ができないなどが上がっているが、どれも「彼」を異常な世界へと排除する決定力に欠ける。

そうすると隣にいる人が「彼」になりえる可能性がある。そして「彼」のような気持ちは「自ら」の中にもある。ただからほんの少しのことで「彼」になるのではないか、ということに恐怖する。誰もが彼が言った愚痴のような疎外を味わったことはあるだろう。その意味でのあまりに身近に感じてしまう。だからこそ怖いのだ。それがこの事件に対する多くのヒステリックな言葉を生み出している。(pikarrr)


なぜ最初はネタがベタになるのか 秋葉原無差別殺傷事件雑感  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080616#p1

このような傾向は日本だけではないようです。スティグレール「象徴の貧困」論において、フランスの暴動を同様に、実感の喪失による反動として語っています。

文化コンテンツによる大衆のリビドーの捕捉は、究極的にはリビドー自体の破壊にまで及ぶ。様々な事件や凶行として現れる「アクティング・アウト(決行)」を招いている。

暴力的・犯罪的行為や凶行のもとには、自分は生きているのだという、存在感覚の喪失がある。消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在しているのだということを逆に証明せねばならなくなる。自己存在の証明のために、凶行に及ぶような行動をとるようになる。

フランスの暴動で現行犯逮捕された少年たちは、テレビで取り上げられ、社会で何がしかの扱いを受けるためだと、政治体制を覆すためでなく「存在する」ためにこそやったという。


「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911#p1

(つづく)
*1
*2

*1:本内容は2ちゃんねる哲学板「東浩紀スレッド132」http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1216312678/において、id:naoya_fujitaさんとの議論にインスパイアーされたものです。参照 「動物化論再考」 - the deconstruKction of right  http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080719/1216424025

*2:画像元 http://d.hatena.ne.jp/hachimara2/20071203/p6